1

心臓町は不気味な街だ。
人は稀に不可思議な体験をするだろう。
それが本当に外界の関与によって起こった出来事なのか、それとも自分の内にある異常が引き起こした錯覚なのかそれはわからない。
ただ、それはどちらにしろ正常とは言えない“異物”の引き起こす事で間違いは無いだろう。
この街は初めからまるでそういった異物の混じり合っているような、そんな気がするのだ。

曇りの空のもと、ちぐはぐに詰まれた不安定な建物は一層の物々しさを醸している。
4階にある不可解課の部署では小さな蛍光灯が1つ、ちらちらと3人の刑事の顔をささやかに照らしていた。
乙骨は隻眼の瞳をぎらりと光らせ2人の部下を睨む。
「やっぱり、あの人が犯人なんですか?」
2人の部下の片方、歌無雄が口を開いた。その顔は眉をひそめ悲しげな憂いを帯びている。
「多分な。指切り事件の被害者達は皆いつの間にか指が切れていていつ、誰に切られたのかわからない。ただ指を切られた日には皆指切り通りに行っていたという情報しか掴めない。指を切られたと言ってもすれ違い様にカミソリで擦っただけだ。切断でも神経をやられるわけでもない。二日三日絆創膏貼ってりゃ治る程度のもんだ。おかげで犯人の足が点で付かねえと来た。」
乙骨は何か確信を掴んでいる風を含みながら悪態を付いているがそれを知ってか知らずかもう1人の部下、首吊坂も口を挟む。
「犯人は女性である可能性が高いんですか?」
歌無雄とは打って変わって首吊坂はいつもと変わらぬ無表情だ。
「ああ。最初は性別すらよくわからなかったんだよなあ。男とすれ違っただの女のような気がするだの。だが100人近く被害者がいる中で一番多い証言は“男だと思うが女かもしれない”というはっきりしねぇヤツだ。こりゃ言ってみればどっちにも取れる人間、という事だろう。」
「そうですね…だからまず男性を犯人として捜査したけど結局何も確証が得られなかった。でも…」
「ああ、犯人が女だとすれば、あの事件と時期が合う。動機は取っ捕まえて話を聞いてみねえとわからねえけどな。」

2

葛の裏の行方について警察から連絡が来た。
どうやら警察署に戻った首吊坂の報告で葛の裏の動向について自分が一番詳しい事情を知っていると判断されたらしい。
首吊坂があの後結局病屋へ来なかったのは4時までに警察署に戻るというタイムリミットがあった為だろう。
さっき白骨に聞いたあの話、信じてもらえるとは到底思っていないが、凩はその件に関しても病屋が関係している事を話せば 警察はもっと大規模に動いてくれるのではないか?という思いがあった。
電車で手野平高校の前まで戻り警察署へ向かう。
昼間立ち寄ったカフェで風花の誕生日にいちごケーキを2つ、それと刑事達へのお土産にモカシュークリームを買うとそのまま警察署へ向かった。

「相変わらずだなあ。この建物は。」
警察署に訪れる度「いい加減建て直せば良いのに」としばし思う事はあるが、
この街はほとんどの建物が年季の入った古い建造物で、その古くささは妙に周りの景観に浸透しているとは思う。
警察署に着く頃にはもう夕方になりかけていた。
4階の不可解課に訪れると歌無雄が出迎えてくれた。他の刑事達は帰ってしまったのか誰もいない。
「歌無雄くん、これお土産です。」
「先生、ありがとうございます。わあー美味しそうだなあ〜コーヒー入れますので座っててください」
歌無雄に促されるまま来客用のソファに腰掛ける。
「歌無雄くん一人なの?他の人達は…」
「あ、あははちょっと出かけてます。僕は先生に葛の裏さんの情報を聞けと言われまして…」
歌無雄は申し訳なさそうに言ったが、どこか白々しいような印象を受けた。
歌無雄は普段から堂々としている、という程ではないが若さと自信に満ちていて無駄におどおどするような人物ではない。
少し不思議に思っていると目の前に出されたコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「それで、あの、葛の裏さんは…」
歌無雄は調書のようなものを机の上に置いた。
「それがですね、信じてもらえないかもしれないですが」
「はあ…」
それから白骨に聞いた葛の裏の顛末を話した。
彼女はもういない。死んだわけではない。生まれ直しているのだと。
きっと違う平行世界で寿命の違う彼女は生きているし、もうとっくの昔に居なくなっているかもしれない。
なぜ、こんなにも白骨の言葉を鵜呑みに出来るのかはわからない。
ただあの指切り通りの病屋の存在が心にある限りそういうこともあり得るのではないかと信じてしまうのだ。
そんな話を歌無雄は困ったような顔で
「えっと…乙骨さんに怒られちゃうなこりゃ…」
とぶつぶつ呟きながらペン先でこめかみを掻いている。
「私が知っているのはそれだけです。途中で見失ってしまったんですよ、葛の裏さんは病屋へ行こうとしてました。 それを止めようとしたんですが彼女は未来を予見する能力があって、私の未来を予見して逃げてしまったんです。」
「そうですよねえ、葛の裏さんの予知能力は政府公認ですから僕も信じているんですけどぉ、でもその、証明しようがないんですよ。先生の話は…」
「でも、病屋は知っているでしょう?あの店が異様だって思わなかったんですか?」
「凩先生、あの話を聞いて僕と首吊坂先輩で調べましたけど、病屋なんて店ありませんでしたよ?」
「え?」
歌無雄のその言葉は凩の耳を疑った。
「刃物屋さんの横の道に入って黒い外壁のアクセサリー屋さんの横道だよ?」
念のため確認を取る。
「はい。でも、刃物屋さんは約束通りにはありますけど、指切り通りの方は7、8年前に店を畳んでいて今はただの廃ビルです。その先にアクセサリー屋さんはありましたけど、ビルの外壁があって先へは進めません。」
「え…そんなはずはないよ。道を間違えてるんじゃない?」
「いえ、その辺一体はすべて調べました。でも凩先生の言うような不気味な通りはありませんでした。」
「…」
そんな…
では一体私が通っていたあの道は何だったのだ…?
無かった、と言われても現に私はその通りに何度も足を運んでいる。
恐怖よりも疑問が頭を埋め尽くしてゆく。
「先生、ちょっと疲れてるんじゃないですか?」
嫌な汗が頬を伝うのを見て歌無雄が心配そうに尋ねた。
「…ごめん、ちょっと自信が持てないから、もっとちゃんと調べてくる…」
声が、少し震えていた。
毒田ならば幻術でも使って身を隠す事くらいはしそうな気がした。
そうやって見つかったらヤバい人種から姿を晦ましている。そうに違いないだろう。
「ふ…」
そんなマンガみたいなことを本気で信じてしまっている自分に少し乾いた笑いが出て来た。
もう一度だけ、病屋まで行ってみよう。毒田に会うのは怖いけど、店がちゃんと存在する事を確かめておかないと 本当に自分が狂ってしまっているみたいじゃないか。
もしかすると伝えた内容に食い違いがあったのかもしれない。
「ところで乙骨さんはいつくらいに戻ってくるの?よければ私から説明しますよ。」
言っては悪いが新米刑事の歌無雄では少し頼りないと心のどこかで思っているのかもしれない。信じてもらえるかは別として、病屋の件は乙骨に直接話した方が良いような気がした。
「いや、あの…乙骨さんは、ごめんなさい、いつ戻ってくるかは…」
「そっか…」
変な沈黙が流れる。
証明しようの無い事でいつまで拘束されてしまうのだろうか。できるだけ早く帰りたいのだが…。
「あの、それじゃもう帰っても良いかな?妹が待ってるし、今日妹の誕生日なんだよ。」
「や!それは駄目なんです!ごめんなさい!もうちょっと話を…」
歌無雄は酷く慌てている。さすがに少し不審な気持ちが芽生えた。
「あの!凩先生妹さんがいらっしゃるんですよね?!」
「?」
突然の話題変更。そうまでして足止めしたい理由があるのだろうか?
「いますけど、それ前に話しましたよね?」
「あ、あはは、妹さんなんて名前なんですか?」
「え?風花だけど…」
「風花さん?可愛い名前ですね!きっと美人なんだろうな〜」
「! そう、そうなんだ!私はね、テレビとかに出ているアイドルよりよっぽど可愛いと思うんだ!シスコンって言うんだっけ?こういうの」
「あはは。凩先生って本当に妹さんを溺愛してるんですね〜」
突然風花の話題になったが自慢の妹を褒められて悪い気はしない。
「他にご兄弟はいらっしゃらないんですか?」
「他はいない。二人兄妹だよ。」
「へえ〜風花さんに会ってみたいな〜っていうと怒られちゃいますかね先生に。」
「ははは、まあ歌無雄くんなら家に招待しても良いかな。」
「えっ?本当ですか?」
お世辞のつもりだろうと軽く返したのだが歌無雄は意外に驚いた顔をしている。
「うん。刑事さんたちにはお世話になってるし、妹は体が弱くて友達もいないからお客さんがいれば喜ぶと思うよ。風花の手作りのお菓子はすごく美味しくて…」
「あっ」
妹の自慢話を遮る様に突然歌無雄の携帯が鳴った。
「すいません」と小さく断ると歌無雄は電話に出る。
「はい…はい…え…?本当ですか?…はい、今いますよ。……はい……わかりました…」
歌無雄の背中はみるみる落胆しているように見える。一体何があったのだろう。
電話を切った歌無雄はこちらに向き直る。
「歌無雄くん、何かあったの?」
「いえ、あの…僕の車で先生の家までお連れします。」
「へ?」

言われるがまま歌無雄の外国製の玩具のような車に乗って帰路につくことになった。
歌無雄の車の助手席は乙骨の特等席だそうで、タクシーでもないのに運転席とその後ろの席だけが埋まっているという奇妙な空間が出来た。
家まで送ってもらえてラッキーだと思うのが普通なのだろうが、歌無雄の様子から何か只ならぬ事情を察していた。
「凩先生、お兄さんとか、いないんですか?」
不意にそんな事を尋ねて来た。さきほど兄妹は風花しかいないことを話したばかりなのに…
「どうして?」
「いえ…あの…ごめんなさい…」
「別に、謝らなくても良いけど?」
何故歌無雄がこんなにも謝ってくるのだろう。なんだかいじめているような気になってしまう。


そうして嫌な沈黙がしばし流れた後、血管住宅街に付いて車を降りるが何故か歌無雄も一緒に降りて来た。
歌無雄の中学生のような幼い顔が酷く怯えていた。
「先生…ごめんなさい…」
「?何が…」
さっきから何なのだろう?
そう聞こうとすると凩の部屋のある棟の入り口から黒いカーディガンのフードをすっぽりと被った首吊坂が現れた。
「あ、先生。ちょっと。」
首吊坂に呼ばれ近寄ったが、おもむろに腕を掴まれると手首に冷たい感触が触れた。
「え?」
あまりに唐突な出来事に一瞬何をされたのか理解できなかった。何かの冗談だろうか?
「えっと、これは、何?」
手首を持ち上げると小さく金属音が鳴った。この手錠は本物のようだ。
「乙骨さんが呼んでます。多分、おかしいんです。あなたは。」
「はい?」
未だ状況を理解出来ないでいるが首吊坂は手錠のもう片方を引っ張って階段を上り始める。
向かうのは…
4階の4号室、
金属の扉に『 凩 』と薄汚れた小さな表札が掲げられている。その部屋は風花の待つ我が家だった。
「なんで…」
部屋を教えた事は無いはずだ。
わざわざ警察で家を探し出したのだろうか?
聞いてくれれば素直に教えるというのに…。
わけもわからずただ何かサプライズパーティーでも仕掛けてあるのかな?などとお気楽な事を考えていた。
だが、
開かれた扉の向こうは、

3

その扉の向こうはまるで知らない異世界だった。

風花が毎日綺麗に掃除してくれている部屋はどこもかしこも荒れ果ていて蜘蛛の巣まで張っている。
ボロボロのテーブルクロス、台所の食器は洗われないまま流しに乱雑に放り込まれている。
「これ…は…?」
部屋を間違えたのだろう。そう思った。
しかし奥の居間で待ち構えていた乙骨は恐い顔でこちらを睨んでいる。
「先生、話を聞かせてくんねえか?」
嫌な予感がしつつ一歩一歩ずるずると部屋の奥へ進んで行く。
一刻も早く風花の笑顔が見たい。
「お兄ちゃんお帰り」とあの可愛い声が聞きたい。
この戸棚の影にきっと風花が立っていて、「びっくりした?」と僕を笑い者にするのだろう。
そうあって欲しい。
心臓が握りつぶされそうになりながら奥の居間へ入る。

戸棚の影に風花は居なかった。

代わりに…

代わりに…


呆然とした凩の手をすり抜け風花の誕生日ケーキの入った箱が床に落ちた。
「これは一体何だ。先生。」
乙骨の帯刀している刀の鞘が向けるその先のソファに、

ミイラのようなだいぶ昔のモノと思われる、

そう、



生首が置かれていた。


「何だ…って言われても…なんなんですか?これ?!悪い冗談はやめてください!!」
凩は本気で怒った。
冗談にしても度が過ぎている。
風花はどこに居るんだ。
風花は体が弱くて部屋から出てはいけないんだ!
風花は…

「凩先生、この前話した肘山で見つかった事故車のこと、覚えてますよね…」
混乱した頭に歌無雄がそんな事を尋ねてきた。
「…なんの関係があるんだ…そんなこと…」
「答えてください。」
「…覚えてるけど…」
そう答えると乙骨が話しだした。
「実はな、8年前、肉桂町でとある一家が強盗殺人の被害に遭ってるんだ。その一家の母親がだな、鈍器で頭やられて死んでる。金品が無くなってたから一応強盗殺人、と銘打ってあるがな、その犯行は身内のものだと思われているんだ。」
「その犯人が私とでも…?」
「いや、凶器に先生の指紋は付いてなかったし被害者と先生はDNAも赤の他人だ。」
「じゃあなんでそんな話するんですか…」
わけがわからない。その家族と、この部屋の惨状と何が関係あるんだ。
「その家の父親は浮気癖があったみてえでな。家があんな事になったのを良い事に自分は別の女の所に転がり込んでたよ。」
凩は静かに乙骨の話を聞く。
「でなあ、その父親の話を聞くとどうやら二人の子供、血の繋がってない兄妹らしいが事件以降行方不明になってる。で、肘山で見つかった事故車の首無し死体、あれのDNAは合うんだよ。その母親と。」
「だからなんなんですか?何が言いたいんですか?私はそんな首無し死体の事なんて知りません!!」
「先生よお、俺はずっと気になってたんだ。あんた、なんで兄の名前を名乗ってるんだって」
「は?」
兄?私に兄などいない。いるのは妹の風花だけだ。
酷く狼狽して刑事達の顔を見渡す。首吊坂も歌無雄も悲しげな顔をしている。
「凩先生…あなたの本当の名前は□□□…●‥」

4

歌無雄が私に向けて発した言葉は突然途切れたいや、理解出来なくなったという方が正しいだろうか、 目の前にいたはずの刑事達は一瞬で解像度の低いモザイク掛かった物体に変化し 発する言葉は伸びきった古いテープの逆再生のようだ。
「あ?…えっ??」
私はわけがわからなくなってしまってしばらく呆けた後、自分の置かれた得体の知れない状況に恐ろしくなり、情けない悲鳴を上げながらその場から逃げ出してしまった。
見上げると、夜になりかけだったはずの空は印象派の絵画の様に不気味な緑と紫色が混じり合っている。

煌々と輝く満月は何秒かに一度瞬きをした。
脳が狂ってしまったのだろうか、非現実に迷い込んでしまったんだろうか、 血管住宅街の外壁に走るひび割れが本物の血管の様にどくどくと脈打っていた。
「なんだこれは…!なんなんだこれはあああ!!!」
私は叫びながら走った。
そうだ、指切り通り、病屋のある通り、あそこは食物が腐敗してカビの生えたそれと似ている。
そして今、その腐敗は心臓町全体を蝕んでいた。
用途不明の奇妙なパイプがそこかしこに伸びて建物は朽ちているか意味のわからないオブジェをくっつけていたり、意味不明な文字の看板を掲げている。
「たすけて…助けてくれ…」
私は一刻も早くこの奇妙な町から逃れたかった。
元いた場所に帰りたかった。
「…もしかして…」
この原因は、やはり病屋だろうか、毒田が私を妙な病にかけたのだ。きっとそうに違いない…!
私は指切り通りの方向へと向かった。
道行く人はさっきのモザイク掛かった物体か、指切り通りで見かけるどこか奇妙な者達ばかりで 知り合いどころかまともな人間すら見当たらなかった。
町の様相はだいぶ変わっているが建物の位置や大方の雰囲気自体は前のままだ。
解像度の低い通行人達とすれ違ってゆく中で、1つ、はっきりとした人影を見つけた。
「あれは…」
信じられない、もしかすると私の他にもこの世界に迷い込んだ憐れな住人がいたんだ…!
近寄るとその後ろ姿から知り合いだとわかって迷わず声をかけることにした。
「高西先生!」
そう呼びかけるとその後ろ姿はくるりとこちらに向いた。
「あ●…、あ●●‥ど●う‥し‥し‥た‥?」
若干伸びたテープのようにも聞こえたがちゃんと意味がわかる!意思の疎通ができる!
「高西先生大丈夫で…」
私は高西に駆け寄ったが、すぐに異変に気がついた。
高西はくたびれた開襟シャツを来ていて細い首筋が露になっていたのだが…、そう、露になり過ぎているのだ。
高西の首の皮膚はほとんど無くなっていて、気管と血管がどくどく脈打っているのがわかった。
「ひっ…ヒィ…ッ…!!!」
私は声に鳴らない悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
狂っている、自分以外のすべてが狂っている…!!


そうしてあてど無く逃げていると歪んだ町並みの中をまっすぐ伸びたタイル敷きの歩道に、見覚えてある黒い影が私の行く手を遮るように佇んでいた。
「あ…ああ…し白骨…さん…」
白骨は前と変わらず人形のような美しい顔のままだった。
私は安堵で涙が出そうになる。
「白骨さん、これは、心臓町がおかしくなって…」
私は黒い影にすがりついた。
足がブルブルと震えて力が入らない。
「凩、毒田と関わらない方が良いと言ったのに…まあ、君は初めから気に入られてたんだろうし、君の住む場所は本来こちら側なんだ。」
「何言ってるんですか!わけがわかりません!!」
白骨は狂っている素振りはないのに、まるで突き放すかのような冷たい眼光が絶望を感じさせた。
「私は悩んだのだ。葬儀屋としてあのまま中途半端な町で過ごした方が君にとっては幸せだと感じたから。だけども、もう向こうに君の居場所は無いんだよ。」
「葬儀屋…」
葬儀屋、そうだ、この人は葬儀屋、もしかするとここは地獄なのだろうか…私は本当はあの朽ちた生首で、本当はずっと前に死んでいて、ずっと、気付かずに風花の側にいただけなのだろうか…
「白骨さん、ここは、ここは地獄なのですか?私は何も悪いことなどしていない、こんな場所で過ごすくらいなら無に返った方がマシだ!お願いします彼岸西さんの時みたいに成仏させてくださいよ!」
白骨のマントを掴んで懇願した。
この人なら、自分の望む世界に送ってくれそうな気がしたから。
だけど白骨は目を伏せて静かに首を横に振った。
「ここは、正常でない者たちの棲む世界。死後の世界ではないし、君は『死んでいる』というわけではない。」
頭が混乱する。私は突然頭がおかしくなったというのか…?
思考はこんなにもはっきりしている、前と変わったという意識もまるでないのに…
「残念だか、本当の凩は既に死んでいるのだ。君は、君という存在は、作り上げられたただの幻想、いわば兄の形を模した人形のようなものでしかないんだよ。」
「え??」
それは、頭の中では信じることを認めない言葉なのに、心の中ではどこか納得してしまっている事実、
「だけど、君の存在は実在しているだろう、今もこうやって私と話をしている。だが君の存在は狂っているんだよ。だから、もう元の世界には帰る事はできない。」
「それは…僕は…もう、風花に会えないということですか…?」
「狂った彼女は君なんだ。会えないよ。」
「ああ…」
白骨の言葉は冷たいナイフとなって私の心臓に残酷に突き立てられた。

5

まるで母親に叱られた子供のように凩はとぼとぼと狂った心臓町を歩いた。
白骨ももうじき会えなくなるだろうと言っていた。
今はまだ、僕がこの世界の事を受け止めていないから、向こう側の、正常な世界からチャンネルというのを合わせるとああして会話が出来るらしい。
だけどもうじき僕はこの世界の住人ということを受け入れて、本当にこの狂った世界に取り残されてしまうそうだ。
「ああ、」
見上げる空は、涙で歪んでいる。そう、思いたい。
ここは、なんて寂しいんだろう。
帰りたい。帰って、風花の誕生日を祝うんだ…
風花、風花、風花、

凩は風花の事だけを考え彷徨い歩いた。
そのうちに、あの見覚えのある通りに辿り着いていた事に気がついた。
「ここは、変わらないんだな。」
病屋のある通り、ここだけは、心臓町全体が狂ってしまう前とそのままの姿だった。
いや、初めからこの場所は狂った存在だったのだろう。
ただ、紛れ込んでいたんだ。
毒田に会えば、ここから逃げ出すヒントをもらえるかもしれない。
たとえ毒田が悪魔だったとしても、どんな代償を支払おうと元の世界に帰りたかった。
『病屋』
錆びれた銀文字がひどく懐かしく感じる。
軋んだドアを開けるとコロンとベルが鳴った。
「ぎひひ、いらっしゃい。」
もう、噛み付く威勢どころか返事をする気力も無い。
「あなたの所為なんですか?これは」
カウンターテーブルに近寄り気怠げに尋ねる。
「なんのこと?」
「心臓町が狂ってしまった…あなたがこうしたんですか?ぼくを…ぼくを帰してください…」
不意に涙がこぼれた。
毒田にまで突き放されるともう自分ではどうして良いのかわからないのだ。
毒田が味方だとは思いたくない。
だが、今は毒田にすがるしかない。
「ぎひひ。凩くん、君は勘違いしてるよ。帰るというか、君が帰って来るべき場所はここなんだよねえ」
「ぼくは…狂ってません…狂ってません…狂ってません…」
「悲しい存在だねえ。人の心って。心配しないでも良いよ。凩くん、僕たち友達じゃないか。ぎひひ。」
うなだれる凩に毒田は何かを差し出して来た。
「でもまあ僕を恨みたくなる気持ちもわからなくもないよ。だからこれをあげる。友達だからね。特別にお代はいらないよ。」
凩が顔を上げると差し出された毒田の掌に一枚、薄汚れた絵はがきが乗っていた。
「…」
無言で受け取る。

既に切手が貼ってある。どこの切手かわからない異国の伝統紋様のような変な柄の切手だ。 裏面の下半分に水彩画のような淡い色彩で色とりどりの花畑から綿毛が風に飛ばされている可愛らしいイラストが描かれていた。
「それはねえ、どんな場所にでも届く魔法のはがきさ。それ1枚しか無いけどね。凩くんにあげるよ。」
「これで、ぼくも病にかかるってわけですか?」
「そうなると良いねえ。君は病によって生まれた存在だけどね。」
毒田は楽しげに言った。
病屋の病にかかれば幸せに死ねるのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えながらはがきを白衣コートのポケットに入れ病屋を後にした。

6

凩はまだ、諦めきれなかった。
この街のどこかに、風花が居る気がした。
探そう。風花を。

とりあえず電車に乗ってみた。
肉色の車体は所々赤黒い何かがこびりついている。
手野平高校前の駅で降りてみる事にした。大脳公園の森がうねる様に蠢いている。
ここも、すれ違う人は皆モザイク掛かった物体かどこかがおかしい異界の住人だった。
街頭は全て赤いランプが灯っていて、道路や建物にお構いなしに用途不明のパイプが連なっている。
公園の方向へ進むとケーキを買ったカフェに着いたがガラス張りの店内はパレットの上で絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたようにうねっている。
しばらく歩くと公園の花畑だろうか、 ひまわりのような背の高い花がたくさん咲いている。
こんな所に花畑があったっけ?
疑問を抱きながら何の気無しに花畑を眺めていると、 その花畑の中から不意に「せんせ」と声をかけられた気がした。
声のした方を目を凝らして見つめる。
暗くて良く見えないが、まっすぐに伸びた花の中に1つ、枯れかけの花がある事に気がついた。

「せんせ」

もう一度呼ばれる。この声は
「恵ちゃんか」
頭を垂れた枯れかけの花が揺れた。

「せんせ」

呼びかけに応じてくれた事が酷く嬉しかった。
だけど、
枯れかけの花にはそれ以上近づけなかった。
見たら、きっと狂ってしまいそうな気がしたから。


駅に引き返すとまだ電車が止まっていた。
ここは時間の流れが少しおかしいようで、時間が流れる、という感覚が無いようなそんな感じがする。
電車に揺られ、少しだけ落ち着いたのか、ふと手首にかけられていたはずの手錠が無くなっているのに気がついた。
無我夢中だったからいつから無くなっていたのかは思い出せない。
でも、こんなことでさえ元いた世界との繋がりを失ったようで少し悲しかった。

そうしているうちに心臓町最果ての喪失岬駅についたので降りることにしてみた。
喪失岬駅は白い壁にカラフルに色付けされた4段ほどの石段があり造り自体は可愛らしいのだが残念ながらだいぶ老朽化しており、返って閉園した遊園地のような不気味な印象を与える。
駅の先に使われなくなった繊維工場が見える。
海は、油が張った様な薄汚い虹色を湛えていた。
それをメルヘン、と呼べる程頭が壊れていたら良いのに。
そんな事を思いながら岬へ上る。
見晴らしの良い高台。
風は吹いていない。
彼岸西の様に、自分もここから身を投げてしまおうか。
そうすれば、もしかすると目が覚めたとき風花のいるあの日常へと辿り着くかもしれない。
断崖に立つ。
もう何も恐ろしいものなど無いはずなのにその高さに足がすくんだ。
そうだ。まだ自分は正常なのだ。その所為でここから踏み出す勇気すら出ない。
鋒に座り込んだまま、しばらくぼうっと海を眺めていた。
「イルカだ。」
海で何か跳ねて、その上に乗っている誰かがこちらに向けて手を振ったような、そんな幻を見た。
波の揺らめきが、何かが跳ねた痕跡をすぐにかき消してしまうから、どっちかはわからないがきっと幻なのだろう。
彼岸西は成仏したのだ。ここは天国ではない。
きっとそれを羨んだ自分が生み出した幻さ。

凩は立ち上がって別の場所へ向かう事にする。
次に電車が向かうのは味蕾町だ。
喪失岬駅の次は味蕾町の駅へ繋がっている。このまま電車に乗れば心臓町から出る事が出来るのだ。
味蕾町がどういう風になっているのか、またはおかしいのは心臓町だけで、味蕾町は正常なままなんじゃないだろうか?
一抹の希望だけを胸に灯し電車に乗り込む。
しかし次に電車が止まったのは膝山の麓にある駅だった。
意味が分からなかった。
膝山は岬から心臓町を挟んで真逆の位置にある。
なぜ味蕾町へ向かってすぐ膝山を出るのか。
凩の頭は混乱した。
そして嫌な仮定を思いつく。
もしかすると、心臓町から出られないのではないか?
凩はそのままひたすら電車に乗り、外の風景を眺めた。
だいぶ拉げて歪んだ町並みだが、どことなく面影は残っている。
原綿森駅、血管住宅街、指切り通りの無人駅、手野平高校前、喪失岬駅、その先は味蕾町だ、なのに、次に着いたのはやっぱり膝山の麓だった。電車を降りて元来た道を振り返るとそこにあるはずのない肘山膝山の連山が大きく立ちはだかっている。
「どうして…」
凩の声はすでに疑問ではなく落胆の色をしていた。
しかたなくもう1つ先の原綿森の駅で降りる事にし、精神病院がどうなっているか訪れる事にした。
まさか自分の頭が狂ってしまってこんな形でここを訪れるなんて…
途中、白樺の林から墓石を蹴る音が聞こえて来た。
ここは、前と同じなのだろうか病院へ続く道を逸れて人離墓地へ立ち寄ってみたがそこにあるのは朽ちた墓石だけで石を蹴る音だけが響いていた。
「…」 ※無断転載厳禁・山井輪廻※
誰もいない霊園を後にし病院へ向かう事にする。
なんとなく、わかってきた気がする。この心臓町が何なのか。
それは病院で確かめる事により確証へ変わるだろう。

7

訪れた精神病院はあまり雰囲気は変わっていなかった。
中に入ると受付のロビーはモザイクかかった物体が犇めいていたが、ちらほら比較的人間だとわかる物体もある。
モザイクを避けながら凩が向かったのは重篤の精神病患者の入院している檻付きのいわば隔離病棟だ。
凩の予想が正しければ、ここに居るのは…
「…やっぱり」
檻の向こうにはちゃんと人の形をした患者達がいた。
ただ、やはり何を考えているのかはわからなくて何か言葉を投げかけても意味不明な言動しか返ってこなかった。
「ここは狂った人間が正常で、正常な人間はモザイクのあれなんだな…」
凩は懐かしい患者達の顔を1つずつ見て歩いた。
誰も意思の疎通は出来ないけど、ちゃんと人の形をしている、それだけで少しだけ安堵できたのだ。
ただ、一番奥の一番新しい患者が入れられているであろうその檻の向こうの患者は正常な人間であるはずのモザイク掛かった物体で、
それだけが唯一不思議だった。

9

電車に乗って血管住宅街へ戻って来た。 ※無断転載厳禁・山井輪廻※
もしかすると、風花が、また前と同じ様な我が家に戻っているかもしれない。
ただ1つ残された希望が潰える恐怖もあったが、凩は焦る気持ちを抑えながら階段を上る。
4階の、4号室
玄関を開ける。
「ただいま。風花。」
凩の声は空虚な部屋に消えた。
そこに風花の姿は無かった。
ただ絶望と朽ち荒れた部屋があるだけ。
「…風花…どこにいるんだよ風花…」
一気に疲れが出て凩はそのまま膝をついて床に崩れ落ちた。
もう、どこにも風花は居ないのだ。
信じたくないけど、これ以上前の心臓町の面影をなぞるのも心が苦しくて仕方なかった。
「風花、どこにいるんだろう…そうだ」
白衣コートのポケットに手を入れると指先に薄く固い感触。それをつまんで引っ張り出す。
「これで、風花に手紙を出そう。きっと風花の元に届いてもしかすると返事が返ってくるかもしれない。」
凩は荒れ果てた部屋に踞って内ポケットに入っていたボールペンをはがきに走らせる。
ぼくは狂ってなどいない。
きっと風花が、誰かが、この手紙を見て助けてくれる。
そう祈りを込めて震える手で一文字一文字綴ってゆく…。


風花へ

元気にしていますか?

私は風花をずっと探しています。

ここにいるといつか壊れてしまいそうですが


私は、元気です。

ー終ー