1

心臓町は不気味な街だ。
絶えず得体の知れない噂が一筋の蜘蛛の糸の様にどこかから流れてきて不意に顔に引っかかって少しだけ気味の悪い思いをする。
小学校高学年の時にトイレや風呂場なんかの水場には幽霊が集まってくる、なんて子供向けの怪談本で読んだ時は久しぶりに親と一緒に風呂に入ったものだ。
私の暮らしているこの心臓町は特にそんな気味の悪い噂が蔓延している気がする。
例えば心臓町の地層にはたくさんのミイラが埋まっているだとか、そのミイラの数を増やす為に心臓町の住人をミイラにして埋めてしまう少年がいるだとか、はたまた昔旧約束通りであった連続指切り殺傷事件の犯人の動機が100人と指切りして死者を蘇らせようとしただとか、人をジャムにして食べてしまう魔女が隣町に住んでいてその魔女は心臓町の住人を攫ってジャムにしてしまうんだとか、そんな荒唐無稽で不愉快なものばかり。
朝戸はそういう噂を聞く度に、なぜもっとロマンチックで幸せな気分になれるような噂を流さないのだろうかと不思議に思う。
わざわざグロテスクなことを吹聴して気分を害することは一体何の意味があるのだろうかと。
ただ、そんなしょうもない噂の中で一つだけ朝戸の心を惹きつけるものがあった。
“指切り通りの病屋という店では自分の悩みを解消してくれる病を売ってくれる”と。
病、とは決して良い意味ではないだろう。しかしそれは不気味な噂に仕立て上げられただけで実際は単なる薬屋だったり、あるいはカウンセリング教室なのかもしれない。
真偽は自分の目で確かめなければならない。
朝戸は人通りに出ることが嫌で仕方なかったが、それも“病屋”で解消できるのならば少し我慢すればいいだけの話だ。

朝戸はしがない恋愛小説家をしている。
といっても自身にキラメくような恋体験や燃えるような愛を育んだ経験は無い。
所詮は既存の映画やドラマや小説の影響やただの理想をただしたためているだけなのだ。
雑誌編集者をしている幼なじみの伊吹になんとか取合ってもらってマイナー雑誌の片隅にワンコーナー、小説を連載させてもらっている。
その収入と親の仕送りでなんとか生活は成り立ってはいるのだが、朝戸は焦っていたのだ。
もう結婚しても良い歳なのに部屋にこもって半ば妄想のような恋愛小説を書くだけの人生。
自分だってもっとステキな男性と恋に落ちてドラマのように苦難を乗り越えてそして最後は幸せな家庭に行き着きたいと思っている。
だけどその為に決定的に問題となっている点が一つある。
自分の容姿に自身が持てないのだ。
いくら頭の中で女優やアイドル歌手のような華やかな女性を想像しても結局鏡に映った自分を見ると絶望してしまうだけ。
だから朝戸は鏡が嫌いだった。
部屋のどこにも鏡は置かないようにしている。
その所為もあってかなかなか自分の醜さを自覚できないのだろうけど、鏡を見る度に絶望するよりかは頭の中では美人で誰もが振り向くような美しい女性でいられる方がマシだ。
だから今こうやって自分以外の人間の目に醜い自分の姿を認識されるのはとてつもない苦痛だった。
大きなショーウインドウに自分の姿が映る度に目を背けた。
顔を整形しようにもそんな余裕は無いし、病屋の噂が本当だったらもっと自分に自信を持てる様になりたい。
どのくらいお金がいるかはわからないが整形の手術代よりかはだいぶ安いだろう。
― ああ…早くこのストリートを抜けたい…。
噂によると指切り通りのだいぶ入り組んだ路地の中にあるらしいが…
今歩いているここは新約束通りと言って、指切り通りの代わりに栄えている心臓町のメインストリートだ。
指切り通りは人気の少ない場所だから良いとして、そこへ行くまでにこの約束通りを通らなければならないことが苦痛である。
幼なじみの伊吹の勤めている出版社がこの新約束通りの近くにあって、朝戸はあまり手を煩わせたくないという思いから血管住宅街で出版社に一番近い場所にあるC−105棟に引っ越した。
自宅から指切り通りへ行く道のりにある新約束通りはどうしても通り抜けねばならないのだ。
人とすれ違う度反射的にビクビクと縮こまりながら足早に通り過ぎる。
人目を避ける様に自然と脇道に入り人のいない方へいない方へと無意識に足が向かう。
そしてしばらく歩くと少し開いた通りに出た。
― なにかしら…すこし不気味な場所だわ…
朝戸が迷い込んだその通りは他の場所よりもいっそう建物がオンボロな気がする。
驚く程人の気配がなくて、ちょろちょろと黒いネズミのような物が横切ってゆく。
とりあえず人の気配がなくてぎちぎちに縮こまっていた心が大きくなったのか、 きょろきょろと建物に掲げられた看板を目にしながらその通りを歩いてみた。
鼻屋、刑期屋、けむしり、…病屋
「病屋…」
噂の病屋は噂通りの名を掲げて存在していた。
どうやら約束通りの路地裏をうろついているうちにそのまま指切り通りへと出てしまったようだ。
「すごい、本当にあるんだ…」
なぜこんな店名にしたのだろうと疑問を抱きつつ朝戸はおずおずと病屋のドアを開いた。
― 営業中、よね?鍵がかかってないようだし…
軋んだドアがキイと音を立てるとそのドアの上に付いているドアベルが申し訳なさそうに小さくコロンと鳴った。

2

「ああ、ああの…お店開いてますか…?」
自分が入れるくらいにドアを開くとさらにギギイと嫌な音を立てた。
「いらっしゃい。開いてますよ」
店の奥から声がした。
雑多にガラクタが積まれている店内でやけに凛と響く声だ。
まだ昼間だから当たり前なのだが店内は電灯がついておらず薄暗い。
体を引きずるようにおずおずとその身を店の奥に進めるとカウンターテーブルに店主とおぼしき男が座っているのがわかった。
「いらっしゃい。ぎひひ」
その男は顔半分をケロイドと天然痘を模したような何かを付けていて(眼鏡か仮面だろうか?)私の顔を見るや口を三日月型にして笑った。
「ご用件は?」
「へっ?あ、ああの、私っあの、ここで悩みを…かっ解消してくれるお店だってあの、噂でそういうの聞いたことがあって」
自分でも笑ってしまう程どもってしまった。初対面の人と話すのは苦手なのだ。
「お客さんの悩みって?」
「えっと…あの…私は、自分に自信が持てなくて…か、顔とかも可愛くないし、図体もでかいし、け…毛深いし、髪の毛もごわごわだし…」
「うん。」
「でもっ私、自分に自身が持ちたいんです。ちゃんと普通の女の人みたいに男の人と普通に付き合えて恋愛とかしたいんです…!」
「そっか。自分の姿が嫌いなんだね。お客さん。自信が持てないって言ってるけど中身は真っ当な人間だって思ってるんだよ。 外身も中身も自信の無い人はどんな時も受け身になってて理想のために行動できないからね。ぎひひ」
「あ…」
この妙な店主は励ましてくれているのだろうか?
正直、中身には自信があるなんて思っていない。仕事をもらえているのも幼なじみにすがっているだけなんだし…
「それで、どんな病をご所望で?」
妙な店主はぎひっと笑い頭を少し傾げた。
「病…自分のことを好きになれる病が欲しいです。もっとちゃんと前を向ける自信が欲しい…それに自分のことが嫌いなままだったらきっと他の誰からも好きになってもらえないと思うから…」
「そうですか。じゃあ自分が大好きになっちゃう病をかけてあげましょーね。ホイっ!」
店主が奇妙な動きで腕をはたはたと振った。
「?」
「終わり。」
「えっ」
「200円。」
「えっ」
さっきのは、おまじないかなにかだろうか…
別段なにも変わったことなど起きない。
「お代は200円だよ。ぎひひ。」
「200円…」
こんな所まで来た自分が急に馬鹿らしくなった。
何が病屋だ。何が悩みを解消してくれる病だ。
今自分の、自分自身に対する評価は前と何ら変わらない。何も自信など生まれていない。
「あの…さっきので終わりなんですか?病って薬物とか病原菌とかじゃなくて…?なにも変わったことは無いんですけど…」
「うん。そうだよねえ。でもここで売ってるのは心の病だから。心の病って自覚症状が中々無いものだから信じてもらいにくいんだよ〜ここが病屋の辛いとこね。」
「…」
正直、初めて人を殴りたいと思った。
しかしこんな馬鹿げた所までわざわざやってきたのは自分なのだ。
仕方なくちゃりんと200円、カウンターテーブルに置くと若干肩を下げて「あの、ありがとうございました。」
と店主に最大級の蔑みの視線を浴びせて病屋を出た。

3

ああ、自分の馬鹿…
今日のこの行動は時間と体力の浪費、しかも大多数の人目にこの醜い姿を晒すというマイナスにしかならなかったな。と、トボトボ歩みを進める。
帰り道にまた人の多い場所にこの姿を晒さ無ければならないのかと思うと気が滅入る。
一番人通りの少ないルートを割り出そうと思ってもこの入り組んだ路地を正確に把握しているわけでもない。
変に迷って余計に家に着くのが遅れるのも嫌だと思い結局は元来た道を戻っていた。
人気の無い細い路地裏をついさっきまでの記憶と照らし合わせながら戻ってゆく。
雑多な細い路地の先に約束通りが横切っているのが見えるとわっと人の姿が多くなった。
一気に陰鬱になる。
あの店主に自分が好きになる病とやらをかけてもらったがなんだか逆に意識してしまって、まるで悪化している様に感じる。
きっとすれ違う人はみんな心の中で私のことを笑っているのだろう。
なんて不細工なんだろうと、こんな私なんて華やかに生まれ育った女性たちと同じなのだと誰も思わないのだ。
途中、赤信号に立ち止まらざるを得なくなる。
止まっていては余計じろじろ見られてしまうではないか。
一時でもこんな場所にいるのは嫌になって、信号早く変われ!と不意に顔を上げた。
そのとき、向こう側で信号待ちしている誰かと目が合った。
「…」
男の人だ…知らない男の人がじっと私の顔を見据えていた。
いやだ…なんで?こっち見ないでよ…
誰かと目が合うと反射的に反らしてしまう。これは癖なのだ。
そのまま信号は赤に変わり、人の波を避け、誰とも目を合わせない様に私は血管住宅街まで辿り着いた。
Cランクの棟は貧乏人用と呼ぶ人もいるが、だいたい一人暮らしの大学生やアトリエ代わりに使用している芸術家なども大勢住んでいる。
朝戸の住んでいるCー105棟から113棟までは約束通りに近い所為もあってか割と一人暮らしの若者が多く住んでいる。
鉄製の重い扉を開ける。
毎日を過ごしているこの部屋が一番落ち着く。
少しじめついて日当りも悪いけど、伊吹に付き添ってもらって買ったピンクとオレンジと白のストライプの可愛らしいカーテンがきちんと部屋を明るい印象に変えている。
ここは自分だけの天国だ。
靴をほっぽり投げてそのままベッドにダイブした。
― 冷たい布団、晴れたら久しぶりに干さなきゃ…
― ああ、疲れた。今日は本当に無駄足を踏んでしまった。
― だけど、あの信号でこっちを見つめていた人…
 なんとなく、優しそうで、はっきり言ってタイプだったかもしれない。
 ドラマならまたあの人とどこかで出会って恋に発展したりもするのだろう。

すこしだけ、期待してみてもいいかな…

その晩は謎の青年と思い描いていた理想のデートをする、とてもリアルな夢を見た。

4

明くる日、久しぶりに遠くまで出歩いた疲れもあってか昼前まで眠ってしまっていた朝戸を玄関のチャイムが強引に夢から引き起す。
「う〜…」
くらくらする頭を掻いて玄関へ出向いた。
この家に来るのはあの子くらいだ。
あの子にならこんなだらけた格好で会っても気にはならない。
「朝戸?いる?伊吹よ。ちょっと暇があってさ、ケーキ買ってきたから食べない?」
玄関口までやってきた朝戸の気配を察してかドアの外にいる伊吹がはつらつとした声をかけてきた。
「待って、今開ける。」
がちゃりと鍵を開けて扉を開く。この扉、体重をかけないと重たくて仕方ない。
「朝戸〜締め切り近いでしょ?原稿、ちゃんと出来てる?」
「う〜ん、半分、くらいかな…」
実は半分も出来ていないのだが伊吹はとにかく色々と口やかましいのだ。ここはのらりくらりはぐらかした方が懸命だ。
朝戸は伊吹を招き入れるとまだ閉めたままだったカーテンを開けた。今日も外は曇り。
「相変わらず散らかってるわねえ〜」
「私にとってはこれでも整理してるんだよ。」
伊吹は散らかった雑誌や原稿用紙を部屋の隅に綺麗に積むとスペースの開いたテーブルにケーキの箱を置いた。
それは朝戸の好物、カフェ『optic lobe』のいちごケーキだ。
「コーヒー…あ、切れてるじゃない。紅茶で良い?」
「おねが〜い」
なぜか客人である伊吹がてきぱきとお茶の支度を始めた。
伊吹は何かと世話好きで朝戸ついついそんな伊吹に甘えてしまう。
だから私はモテないのかなと思いつつ大きなあくびをした。
「ねぇ朝戸、病屋に行くって言ってたじゃない?行ってみたの?」
紅茶のカップを置きながら伊吹が尋ねてきた。
病屋の噂は伊吹から聞いたものだ。
伊吹の担当している雑誌は女性誌のはずだがこういったうさんくさい都市伝説やら怪談やらの情報にやたら詳しかったりする。
「昨日ね。でもなんかインチキだったよ。ただのガラクタ屋。」
「へぇ〜本当にあったんだ。なに?病を買ったわけ?」
「うん。なんか、こうやっておまじないみたいな感じのをね、変な店員さんが」
朝戸は昨日病屋の店主がやってみせた様に手を振ってみた。
「え〜?もしかしてそれだけ?」
「うん」
「それであんた自信はついたわけ?」
「全然」
「それでお金取られたの?」
「200円。」
「200円?!ぶっ…あはははなにそれ200円って!!あはははは」
伊吹は朝戸の話を聞いて盛大に吹き出した。
噂の時点ではどこか不穏で気味の悪い都市伝説だったものが蓋を開けてみると変なまじないのフリに200円払っただけの話である。
まあ、笑いたくもなるわ…
朝戸はずずっと熱い紅茶をすすった。
「あ〜面白い。あ、ねえねえ私も病屋行きたいな。案内してよ。」
「え〜別に良いけど…」
ケーキと日頃の世話もある。伊吹の頼みは断りにくい。
「心臓町の噂の真相、もしかしたら良いネタになるかも。」
「いや、ならないと思うよ…」
心無しか伊吹の目が仕事時の目に変わり爛々としている。
そんなに期待する程の店では決してないのだが…

ケーキを平らげると出かける支度を始めた。
朝戸が準備している間に伊吹は食器を片付け掃除機までかけ始めた。
「よし、これでいいか。」
適当にかけてあった服を来て適当に髪を梳く。
昨日のあの青年とまた出会えるかも、なんて夢のようなことを少し期待しながら化粧を手慣れている伊吹に手伝ってもらった。
普段は口紅をかるく付けるだけの自分の腕じゃ上手くお化粧が出来ている自信がないのだ。
まあ、どうせ会えたとしてもきっと自分から声はかけられないだろうが。

支度を終えた朝戸は伊吹の軽やかなステップに引き連れられ曇りの空の下に飛び出した。

5

人通りのある場所でも伊吹が隣にいると不思議と気分が大きくなった。
集団心理というやつだろうか。だれかと群れなくても生きて行けるとは思っていたが、やはり隣に誰かいてくれるこの安心感を実感してしまうと私も寂しい人間だったんだな。とつくづく思わされる。
「私、2時に戻る予定だから。まあさすがに指切り通りまで1時間もかからないわよね?」
伊吹が時計を見ながら聞いてきたがそういわれても返答に困る。
昨日はただ人のいない道を選んで適当に進んでいたら偶然指切り通りまでたどり着けただけで どれだけ時間がかかったとか詳しい道順を覚えているかはすこし自信がない。
というかすでに約束通りのどの辺の脇道に逸れたかよく覚えていない。
この辺だったかな?この道だったかな?と曖昧になってしまった記憶を頼りに路地裏を進む。
あまりにも見慣れない道には入らないだろう。正しい道筋を通れるかなんてぼやけた記憶に賭けるしか無い。
それに路地の出口は割と同じ道に通じているものだ。
伊吹にはテキトーに進んでます。なんて言えるはずも無く黙々と進んで行った。
その間伊吹は知っている店が目に入る度あそこの居酒屋の唐揚げが美味しいだのあそこのカフェの店員さんがイケメンだのタウン情報誌さながらの独り言を楽しそうに振りまいていた。

「えっと、この辺…あれ?」
「何よ約束通りじゃない。」
適当に広い道に出てみたがそこは相変わらず人通りのある約束通りであの全く人の気配のない指切り通りではなかった。
「ごめんごめん、私道に詳しくないからさ、」
伊吹に平謝りしつつまた歩を進めた。たしか、この方向だったと思うんだが…
しかしまたも出た道は指切り通りとは見当違いの国道である。
「朝戸、この先は指切り通りじゃないよ?」
「そうみたい…だね」
伊吹の顔が若干不安そうになる。
あれ?指切り通りへは本当にこの約束通りから行くことが出来るのだろうか、頭が少し混乱する。
約束通りと指切り通りの間には国道が走っているのだが昨日は国道渡ったっけ?
ため息を一つついた伊吹が「こっち、とりあえず指切り通り行こ。」
と朝戸の手を引いた。路地裏から行けたはずなのに結局今日は人通りの多い道を突っ切るしかなさそうだ。

伊吹と共に指切り通りへと到着したがはっきり言ってここは昨日通らなかった道だ。
病屋のあった通りはもっと建物がオンボロで訳の分からない店が軒を連ねている。
だが目の前に伸びる指切り通りはただの閑散としたシャッター街だ。
それからしばらく歩いたが結局病屋のある通りにはたどり着けなかった。
「もう、ちゃんと道くらい覚えてなさいよ!!」
伊吹は無駄に歩かされてご立腹のようだ。
「ご、ごめん、私も病屋に着くまで半信半疑だったからさあ」
「ま、いいけどさ。私、出版社に帰るけど、朝戸も家に帰る?」
「うん。途中まで一緒に行こう。」
「うん。」
伊吹は快く承諾してくれたがはっきり言って伊吹と一緒にいると伊吹に甘えて しまう自分が余計惨めに思えしまう。
ああ、本当に駄目な人間だ。私は。伊吹はこんなに私に親切にしてくれるのに。
目の前で楽しそうに話しかけてくれる伊吹に私は一体何をお返ししてあげられるのだろうか。
「ごめんね。伊吹、私なんにも役に立てなくってさ…」
「いいよ。気にしないでよ友達なんだから。」
変に落ち込んでしまった私の背中を伊吹はばんばん叩いた。
「あ、」
人ゴミの中に紛れて二人、信号待ちをしている。
この道は、昨日の…
それに気付くと妙に向こう側で信号待ちをしている人ゴミが気になってしまう。
ーあの人はいる?いない?いない…
昨日のあの男の姿は見えかったのだが信号が青に変わり一斉に人々が動き出すと一瞬だけ、向こう側から歩いてくるあの男の目が私を捕らえていた。
自分には無い長い睫毛に白く綺麗な肌、どこか病弱そうで優しそうな…

あの人だ!

本当にまた会えたことがなんだかつい嬉しくなってしまってつい口元が緩むとその男もこちらを見て微笑んだ気がした。
それを見て朝戸は一気に舞い上がってしまった。

「ね、ねえ伊吹、」
伊吹に声をかけようとするが「ほらほら、ぶつかるよ?」と隣のおばあさんにぶつからないよう腕を引っ張られた。
信号を渡りきるともうあの人の姿は無かった。
人ごみの中を探してもあの人の後ろ姿も見つけられなかったのだ。
「さっき何か言おうとしてなかった?」
伊吹の声にはっと我に返った。
「あ、」
どうしたんだろう。なぜあの男の人があんなにも気になってしまうんだろう。
「えと、ね、伊吹、実は…」
朝戸は伊吹に昨日の出来事を踏まえてさっき目が会った男の話をした。
「それって、まさか一目惚れ、とか?」
伊吹はなぜだか気味の悪そうなしかめ顔で聞き返す。
一目惚れか、そうかもしれない。
「や、やめなよ朝戸そんな男いなかったって!あんたもっとさぁ現実を見なきゃ、ね?お願いだから…」
伊吹はどことなく必死そうだった。私が恋をするのを阻止しようとしている、と考えるのは伊吹に悪いか。
「でもさ、あの人何者なんだろ一瞬しか見えなかったんだけど…実はねちょっとタイプなんだよ。今度会ったら話しかけてみようかな…」
ふと気付いたが話しかけてみたいだなんてそんな発想が出てくるのは自分に自信がついている証拠なのだろうか。
案外病屋のまじないは効果があったのかもしれない。
「朝戸…ね、ゆ、幽霊じゃないかなあその男って。」
「え?」
伊吹は何を言い出すんだろう。
「なんでそんなこというの?友達なら応援してよ」
「朝戸…やめてよ朝戸、私も向こう側の人たち見てたけどさ、みんな若い女の子とかさ、おばさんたちばっかりで男の人はいなかったよ?
それに朝戸には私がついてるからさ、ね?ずっと一緒にいれば良いじゃん。恋人とか、結婚とか、多分朝戸が思い描いてるような良いものじゃないと思うよ?」
「え?駄目だよそんな伊吹だってちゃんと良い人見つけてさあ…」
「なんで…?朝戸はいもしない男の視線ばっかり気にして…私の視線には全然気付いてくれないよね…」
急に食い下がってきた伊吹を見て、一つ嫌な憶測が芽生えてしまった。
伊吹、ずっと親友だと思っていた彼女はもしかして…

その後はなんだか嫌な空気が流れてしまって別れ際に一言「じゃあ、」とかわす以外は二人とも無言のまま朝戸は家路に着いた。
重い鉄製のドアがゴトンと閉まると朝戸ははあ〜…と深くため息をついた。
伊吹の本性を垣間みてしまった気がしてこれから前と同じ様に接することができるだろうか…
私の自意識過剰さが生み出したただの妄想かもしれない。いや、そうであって欲しい。
彼女はもしかして私に友情以上の感情を抱いているのではないか、 それは今日の伊吹の様子から想像した単なる決めつけに過ぎないのだが、一度そういう考えを持ってしまうと どうしても今までの言動の全てが怪しく思えてくる。
私は一緒にいて楽しいような人間じゃないだろうに、たまたま幼稚園から高校まで同じ所に通っていて親しくなっただけの関係なのに 私は彼女に一銭も得になったことなどないのに。
朝戸は「うわああ〜」と頭を掻きむしった後、とりあえず夕飯も兼ねた遅い昼食を取って仕事に打ち込むか、と宅配ピザのメニュー表を 取り出した。

6

「はぁ…やる気が起きない…」
朝戸は伊吹のこととあの謎の男のことが気になって目の前の原稿など全く手に着かなかった。
朝戸の連載小説はオムニバス形式で様々な恋模様をだいたい1〜5話程度でまとめている。
今執筆中の話が終われば次は化け猫とウエートレスの恋物語でも描こうかと思っていたのだが 冴えない独身女と幽霊男の話の構想が勝手にどんどん頭の中で膨らんでいた。
それはだいたいこんな話だ。
冴えない独身女A子としよう。A子は自分に自信が持てず恋に踏み出すことができない奥手な女性。
あるとき変な噂のある骨董屋で不気味な店主に美人になれるおまじないをかけてもらう。
そのおまじないで美人に変身し自分に自信のついたA子は街中で佇む一人の青年と出会う。
その青年はふとした弾みにすぐに見失ってしまう幻のような人で、だけど見かける度に青年と目が合うA子は いつしかその青年に恋をしてしまう。
自信に満ち満ちているA子は思い切ってその青年に話しかけるが青年はA子が恋に前向きになったからこそその姿が見える様になった幽霊だったのだ!
せっかく恋人になりそうな相手と巡り会えたのに彼は幽霊、二人の間にはいきなり難題が立ちふさがる。
人間と幽霊では同列にはなれない。
人間と幽霊と言う関係のままだと手と手を重ねることも出来ない。
もちろんキスも。
だけど、生者が幽霊になることは可能だ。

結末は、基本的にハッピーエンドが好きなのだけど今回はA子が彼と同じ幽霊になって二人いつまでも幸せに寄り添う少し切ないラブストーリーでもいいかな。と思っている。
話のあらすじは決まったけれどまだ題材不足だ。
昨日と今日会った彼の正体もまだよくわかっていない。
今は夜の9時を回っている。
幽霊に会うのなら夜の方が良いんだろうけど夜の繁華街のにぎやかさは昼間の通りよりももっと苦手だ。
冷めたピザの残り1ピースをかじりながら次回作のメモを取る。
…明日、もう一度病屋を探してみようかな…伊吹に借りばかり作ってなんだか申し訳ないし、 それにあんな不思議な出会いをさせてくれた病屋の店主にちょっとお礼も言いたいし。
そうと決まれば朝のあまり人気の多くない時に彷徨いてみよう。
朝戸は無理矢理文章をひねり出して目の前で白く輝いていた原稿を埋めすぐに布団に潜った。

7

朝になって弱々しい日差しが朝戸の顔を照らしたので眩しさに目を開けた。
寝る前にカーテンを開けておく。そうすれば朝日で自然と早起きできる。
不規則な生活ばかりしていると身が駄目になると思いたまに実行している目覚まし法だ。
二度寝しないうちにうーん、と背伸びをした。
正直あれだけ彷徨ってたどり着けなかった病屋を探すのはめんどくさいのだが良い運動になるだろうと、前向きな行動理由を付け足した。
目が覚めたのは6時、準備して家を出たのは7時すぎだった。
今日は雲が薄いらしく涼しげに青空が薄い膜のような雲間から覗いている。
さすがにどの店も開店していない時間なので約束通りも人気がない。
ただこういう時は店の周りを掃除をしているおばちゃんやらどこかの業者さんやらに返って注目されてしまう。
会釈すればいいだけなんだろうけど私は自然な会釈が出来ているだろうか、挙動不審者が不意に頭をがくんと振っただけだと思われやしないだろうかといつも無駄な心配をしてしまう。
朝戸は病屋への道を探すつもりだったが向かった方向はあの信号のある場所だった。
また会えるかな?あの人会社員なのかしら?スーツは着ていなかったけど…
不気味に顔がにやけるのを押さえつつ両サイドに服屋や靴屋の並ぶ商店街を歩いているとふと視線を感じた。
…誰か見てる?掃除の人?それとも
あの男に会えるかもという変な期待と見られているという嫌な気持ちが渦巻いている。
朝戸はゆっくりと振り向いた。
「あっ…」
朝戸の心臓が跳ねた。
驚きの所為もあるがこれはあえてトキメキだと言いたい。
一気に鼓動が高鳴る。
ああ、あの人だ、
また私を見ている、
逃げ出さないかまるで野良猫に近づくかの様にゆっくりと距離を縮めてゆく。
向こうもこちらを凝視したまま一歩ずつ近づいてきた。
「あ…」
青年は朝戸の前に立って不器用に微笑んだ。
「おはようございます…」
朝戸がおそるおそるそう言うと青年の口もそう動いた様に見えた。
もしかして、声が…?
青年は一時もこちらから目をそらさない。
それが少し恥ずかしくて朝戸はすこし目を背けた。
「私、朝戸、っていいます、あのあなたの名前良かったら教えてもらえませんか…?」
朝戸が話しかける間、青年は何かを口走っていたが手話やジェスチャーを交えるそぶりは見せなかった。
口がきけないのではないのだろうか?
それから何度か話しかけてみたが青年は何も答えてはくれなかった。
一度だけそっと青年の手に触れてみたが朝戸の手に伝わったのは氷の様にひんやりとした冷たい温度だけ。

ああ、もしかすると本当に…この人は…

彼は自分にだけ見える存在なのだろうか。
そのあと時間が経つのも忘れて彼と見つめ合った。
店が次々と開店し次第に人通りの多くなってゆく商店街、道行く人はみんなこちらを不審な目で見て通り過ぎる。
通行人に顔を向けなくてもショーウインドウに映った姿で確認出来た。
せめて彼の名前くらいは知りたかったのだがあまり人通りの多いここにいるのも苦痛だった。
二人の時間を邪魔する通行人達が恨めしい。
別れ際、彼に手を振ると彼も名残惜しそうな顔で手を振ってくれた。
ああ、幻の人、本当に私の恋は報われないのかしら…
誰かに恋をするのがこんなにも苦しいなんて…
朝戸の頭はあの青年のことでいっぱいになっていた。
名前はなんて言うのだろう。どこに住んでたのだろう。好きな食べ物はなんなのだろう…私のこと、何故あんなに見つめたの…?
半ば悲劇のヒロインのように陶酔して朝戸はふらふらと歩くうちに、いつの間にかあの不気味な通りにたどり着いていることに気がついた。
といっても病屋のある通りではなく伊吹と一緒に訪れた指切り通りのシャッター街である。
「そうだ…病屋…みつけようかな…彼と一緒になれる病はあるかしら…?」
ひとしきり裏路地を歩き回る。
人の気配がない。まるでこの世界にたった一人残された気分だ、
一人がこんなに寂しいだなんて…
朝戸が不意に目をやるとパン屋の看板がかけられたおとぎ話に出てきそうなレンガ作りのお店があった。
店内は暗いし棚に商品が並んでいる様には見えない。回りも雑草だらけだし落ち葉も散れたままになっていたのできっと今は営業していないのだろう。
その店の前にさっきの彼がいた。
私を追いかけてくれたのか。
やっぱり彼は私の運命の人だ。
朝戸の目には嬉しさと切なさで次第に涙が溜まってゆく。
彼の顔がよく見えない。
泣いている顔なんて見せたくない。
涙を拭って無理に笑いかけると彼も安心した様に笑ってくれた。

8

瘡蓋森の精神病院に出勤した凩は受付のナースに挨拶を交わすなり相談窓口の担当をしてくれと頼まれた。
相談窓口は精神科に誰でもなんでも気軽に相談出来る様に設けられた小部屋で、来診者の話や相談を聞いてどう対処すべきかというアドバイスや治療が必要な患者は診察に回したりする場所である。
今日はいつも窓口担当の木の下さんが急用で不在のため、若手で今日は診察の入っていなかったの凩に白羽の矢が立った。
窓口はとにかく暇でたまに患者が見えたかなと思ってもただ単に愚痴を延々聞かされるだけだったりはたまた地味に常識が通じないようなとんでもない重症者が訪れたりすることもある。
ここの担当になればいつしか来診者の扱いにも慣れることなのだろうが患者と真面目に向き合って治療に専念出来るわけでもないし単なるアドバイスでは救えた気分にもなりにくいので正直いつもの診察の方が仕事にやりがいを感じる。
病院のロビーから生えた薄暗い廊下の一番隅に設置された相談窓口の小部屋に入る。
こんな場所にあると相談窓口の存在があまり気付かれないんじゃないだろうか。
そんな心配を他所にお茶っ葉の入った急須とお茶菓子を持ってきてくれたナースが
「これから一人相談にいらっしゃいますよ。電話を頂きました。伊吹さんと言う方です。」と知らせてくれた。
「ああ、そうなんですか。」
今日は一日暇になりそうだという心配を他所にどうやら来客の予定があったようだ。
まあ、考えてみれば相談窓口なんてそんなに重要なものでも無いし、手が開いた医師が待機しておくだけでもいいだろうと思った。
「出版社の方らしいですけど、取材だったらどうしますぅ?先生雑誌に大きく載せられちゃったりして!」
「えー?なんで私が」
「敏腕精神科医凩先生って!」
「あはは、何それ、他の先生ならわかるけど私じゃそんな良い評価はしてもらえませんって」
「またまた〜先生ケンキョですね!」
ナースが楽しそうに話しかけてくる。こういう明るい子と話すといつもの奇怪な症状を持つ患者達とのやり取りの疲れを少し忘れることが出来る。
「木の下さん何の用事なの?出張?」
「ケーサツですよケーサツ」
世間話ついでにちょっとした疑問をぶつけるとナースが意味深に答えた。
「えっ?何かやらかしたんですか?」
窓口の担当医である木の下さんはカウンセラーの優しいおばさんだ。何度か自家栽培のキュウリと茄子をもらったことがある。
定年退職後、パートのような形でこの窓口を受け持ってくれている。
この病院の院長よりも年上の一番の古株でもある。
(といってもここの院長は割と若い先生なので僕と10歳程度しか歳は離れていないらしい。)
あの優しい木の下さんが警察の世話になるなんて想像できない。
「前にほら、捕まったじゃないですかぁ爆弾魔。」
「爆弾魔?ああ、人体爆破の」
「その犯人の少年の診察っていうのかな?なんかサイコパスの気があるんじゃないかとか言ってたような〜」
「精神鑑定か、私も木の下さんくらいベテランならそっちに回してもらえたのかな。」
警察署は不可解課に知り合いの刑事がいるから、そっちに行きたかった気もするがまだまだ未熟な僕に精神鑑定は勤まらないのだろう。
相談窓口もなんでも経験だな!と変に前向きにさせられた。
すると入り口のドアがコンコンとノックされた。
「あ、はい」
返事をするとナースがドアを開けて来訪者を中に案内した。
セミロングの明るい髪に派手目のカジュアルな装いで少し目つきのキツい女性だ。
ここはあくまで相談室であって診察室ではない。
リラックスしてもらう為に急須にポットのお湯を注きお茶を入れた。
「伊吹さんですね。どうぞ、座ってください。」
椅子に座るよう促すと出版関係者らしいその女性は無駄な動きを感じさせないキビキビとした動きで「はい」と一礼し目の前の椅子に腰掛けた。
「それで、ご相談って」
「あの、私の友人のことなんです。」
「これを」と伊吹がバッグから取り出したのは一冊の雑誌だった。見かけないゴシップ誌だ。
伊吹がパラパラとページをめくり本を開いたまま差し出してきた。
そのページには人気男性アイドルがストーカーに狙われているという題字がでかでかと載っている。
「こっちなんですけど、」
伊吹が指差したのはアイドルのストーカー記事の隣のページだ。
そこにはまるまる1ページに小さな文字で小説のような物が載っていた。
〜心臓が壊れる程のロマンス〜第13話 その1 とタイトルが打ってある。恋愛小説のようだ。
「この作者、朝戸って言うんですけど最近様子がおかしくて…」
小説の文末に朝戸、と言う名と簡単なプロフィールが紹介されていた。
ぱっと見で拙い文章だなという印象を受けるその小説の余ったスペースを埋める為かご丁寧に作者近影まで載っている。
「どう、おかしいんですか?」
「あの、誰もいない場所に向かって何時間も佇んでたり…その人…朝戸は外に出るのすごく嫌ってた子なんですけど、ここ最近毎日の様に指切り通りに向かってるみたいで…」
「指切り通り?」
「ええ、指切り通りの元はパン屋だった建物の前です。私この間朝戸の家に原稿を取りに行ったんです。いつも部屋にいるのにその日はいなくて、その前からちょっと変なこと言ってたんで私不安になって約束通りから指切り通りまで朝戸を探したんです。そしたらそのパン屋だった建物の前にいて好きな食べ物は何?とか今度料理作るから家に来ない?とかまるで誰かに語りかける様に一人でぶつぶつ呟いてて…」
「その、何かきっかけとか心当たりはありますか?」
「私、指切り通りにある病屋って店の噂を朝戸に教えたんです。あの子自分に…」
「病屋?!」
「え、ああはいご存知ですか?」
「え、ええまあ、あの、すみません続けてください。」
突然出てきたあの店の名前に心底びっくりした。まさか朝戸という小説家も毒田の餌食に…?
「あの、朝戸は自分に自信が持てないっていつも言ってて病屋で自分に自信が持てるような病があるか行ってみるって、私は朝戸のこと好きなんですよ。なのにあの子はいつも自分は駄目だとか醜いんだ誰も私のこと好きになってくれないんだって、ちょっと少女嗜好の強い子でした。私たち幼稚園からの付き合いだったんですけど、朝戸はままごととか人形遊びみたいな女の子の遊びや恋愛ドラマがとにかく好きで…ああ、ちょっと話が逸れましたね。 それで病屋の噂なんて私全然信じてなかったんです。だって心臓町内をしょっちゅう取材で駆け回ってるけどそんな店見たこと無いし、 でも朝戸は病屋に行ったって言ったんです。こう、変なおまじないを200円でしてもらったって。」
そういって伊吹は手を妙な感じに動かしてみせた。毒田が同じような動きをしているのが容易に想像できる。
「それから朝戸さんに変化が?」
「ええ、自分では何も変わらないって言ってたんですけど…私、その病屋に行ってみたいから案内してって頼んだんです それで二人で一緒に行くことにして、結局病屋は見つけられなかったんですけど、その帰り道です。」
凩の喉がごくりと鳴った。
「二人で信号待ちしてたんですよ。約束通りの交差点で。信号が青に変わって、渡り終えた後でした。朝戸が向こう側にいた男と目が合ったって、嬉しそうに言ったんです。」
「そ、それで、」
「どうやらその前日、病屋から帰ってくる時にも同じ男性と目が合ってたらしくて、なんていうか、ちょっとドラマっぽいじゃないですか2回も目が会うと運命の出会いみたいな…さっきも言った通り朝戸はそういうのが大好きなので、変なスイッチが入っちゃったんでしょうね。その見知らぬ男に一目惚れしたみたいで…」
「えと。朝戸さんって…」
「はい。あの子昔からそういう子だったんです。」
それだけ聞くとまあちょっとは妙に思う所もあるけれど無いとは言い切れないことではないだろうか。
そう言いたげなのを察したのか伊吹は話を続けた。
「でも、これは私の職業病みたいなものなんですけど、私、観察眼、っていうんですか?今巷で何が流行ってるのか、どんなファッションが人気なのかそういうの自然とチェックする癖がついちゃってて、信号待ちしてる間向こう側で待ってる人たちを観察してたんです。向こう側で待ってたのは若い女の子が5人と50歳くらいのおばさんが4人、押し車を引いてる小さなおばあちゃんが1人、横一列に並んで信号が変わるのを待っていました。これは私のプライドにかけて断言しますけど、信号の向こう側に男の人なんていなかったんです。」
「え?」
「女性の後ろに隠れてたんじゃないか、とも思えますけど向こう側で待ってる人たちの背後の小窓みたいなショーケースに並んでたマネキンの服まできっちり観察してましたから女性たちの後ろに男性がいたなんて私には信じられません。」
「それはつまり朝戸さんが幻の男に恋したのではないか、と?」
「はい。朝戸は私に会う度そのいもしない男性との出来事を話すんです。彼はきっと幽霊なんだと言ってました。そうなのかもしれないです。 朝戸の顔、みるみる窶れてますし…それにやたらと私にその男と一緒になるって言って聞かないんです。私はこのままだと朝戸が幽霊に取り殺されてしまう気がして…私…朝戸のこと…朝戸が死んだら…私…」
気の強そうな伊吹は肩を震わせ今にも泣き出したいのを気丈に堪えているようだった。
「わかりました。私も解決策が見つかる様にちょっと調べてみます。伊吹さんは本当に朝戸さんのことを想ってらっしゃるんですね」
凩が優しく投げかけると伊吹は俯いたまま声を上げない様に泣いているようだった。

問題の根源は病屋だろう。毒田を問いただして朝戸さんを助ける術を見つけなければきっと…

9

『幽霊は水場に集まる。』
あれほど嫌だと思っていた気味の悪い噂の1つがこんな時に役に立つなんて。
世の中何が助けになるかわからないものだ。と私は妙に感心してしまった。
私はお風呂場に水を溜めると彼に会えることに気付いたのだ。
水面に彼が待ち構えていて、こっちにおいでよと呼びかける。
水面が揺らめくたび波打つ彼の顔すらも愛おしくて、私は全てを投げ出してでも彼の元へ行きたかった。
彼と私の出会いや出来事を基にした小説はすでに書き上げた。
面白い程筆が進んだ。実体験があるとこんなにも世界が広がるのか。
私は初めて人生が楽しく思えた。
恋の力はすばらしい。
ただ一つ、悲しいことは彼と抱き合うことが出来ないことだけだ。
それは私が生きてる人間で、彼はそうではないから。
物語の結末は最初に考えた通り、冴えなかった独身女がおまじないで手に入れた美貌も自信も命すらも捨てて 幽霊である彼の下へと行く少し切ないラブストーリー。だたこれはハッピーエンドだ。
だって女は死後、愛する彼と寄り添えるんですもの。
それはきっと天国という名の世界。
死を乗り越えた先に愛が待っている。
水面に映る彼を見てると側に行く勇気が湧いてくる。
今、私の顔を照らす水の色できっと私はあなたと同じ死人の顔の色をしているのだろう。

キスしてくれるだろうか、
あなたと私を繋ぐ、

死のキスを………

10

勤務時間を終えた凩は逸る気持ちを押さえながら病屋へと向かった。
今はもう日が長くなり初めの頃だ。ピンクの夕焼けが雲間から覗いていて不気味に町を照らしている。
指切り通りの病屋、もう道筋は覚えている。
どこか奇妙なこの通りもすれ違う人々もいつもとなんら変わらない。
凩は怒っていた。※無断転載厳禁・山井輪廻※
今日は人の命がかかっている。
強気で行かなければまた大切な命をむざむざ失わせることになるかもしれない。
病屋の軋んだドアを開ける。いつも通りコロンとベルが鳴った。

「凩くんじゃない。どうしたの〜?」
いつもとかわらない。ふざけた調子の店主。
「前に朝戸さんという客が見えましたよね?」
伊吹に借りた雑誌の例のページを毒田の眼前に叩き付ける。
「お、脆星くんストーカー被害に遭ってるのかあ〜ぎひひ」
「こっちです!」
凩は紙面の右側を指差した。
「うん?あ〜この人ね、来たヨ。」
毒田は相変わらず飄々と答えた。
「この人を一体どんな病気にしたんですか?!」
強気に、キツく問いただす。
「ぎひひ、恋人にしたいタイプの幽霊が見える様に〜」
「!!やっぱり…」
伊吹の言う通り、朝戸は幽霊に取り憑かれて…
「なーんちゃって!う・そ☆ ぎっひひ」
「ど…毒田さん…」
この人をおちょくっている調子は何とかならないのか、今はもう毒田に対していら立ちしか感じなくなっている。
「真面目に答えてください。朝戸さん、いもしない男性のことを好きになってそれで…」
「この人ねえ、自分に自信が持てないんだって。恋愛とかしたいのに自分で自分のこと嫌いなままだときっと誰も好きになってくれるはず無いからって。だから自分のことを大好きになる病をかけてあげたよ。200円で!」
毒田は虫のような手でピースサインをしてみせた。何故か得意げだ。

この飄々とした店主をなんとか説得して朝戸さんを救わなければ…
凩は毒田に突っかかるが毒田はのらりくらりと躱し、そう思えば突然キツい一言を言い放ち凩を翻弄する。
「…朝戸さんの病を治せないんですか?!」
「凩くん、そりゃお節介ってモノだよ〜。君にそんなことする資格は無いでしょ。」
「でも、死ぬよりかマシです!」
「こないだ言ったことな〜んにも理解してないんだねぇ、君は。」
「生きていればきっと辛いことなんて乗り越えられるんです。辛いことを誤摩化してその結果死んでしまうなんてあんまりですよ!」
「辛いことを乗り越えられる保証は、無い。でしょ?ぎひひ。」

半ば水掛論のような言い合いを続けていると突然携帯電話が振動した。
毒田はまるで自分の巣にかかった獲物にじりじりと詰め寄る蜘蛛の様に言いくるめてくる。
ムキになって毒田のテリトリーに踏み込み過ぎて自分の精神をも病に毒されてしまうそうな不安に駆られていた所の呼び出しは、ここから逃げ出す為の助け舟のように感じた。
精神病院からだ。
出ると今朝少し会話を交わしたナースだった。
「凩先生?あのっさっき伊吹さんがすごく取り乱してここに来たんです!今鎮痛剤を打って眠ってますけどすごく錯乱してて、死んでるとか喚いてたんでなにか事件じゃないかと思って」
「なんだって?!」
嫌な予感がした。
病屋を飛び出すと指切り通り南口のバス停へ急いだ。
あと5分ほどでバスが来るようだ。そのわずかな間に警察の方にも連絡を入れておいた。
まだ事件と確定したわけではないが歌無雄ならば快く現場に赴いてくれるだろう。

少し遅れて来たバスに乗ると伊吹にあらかじめ教えてもらっていた朝戸の部屋へ向かうため血管住宅街へ急いだ。

11

血管住宅街のバスが停留所に着いたが、そこは凩の住むB棟の区域でそこからC棟まではだいぶ距離がある。
凩が駆けつける間にどうやら警察が集まってきたようで朝戸の家があるC−105棟の周りに何台かパトカーが止まっていた。
薄暗くそびえる四角い棟の側面に綺麗に陳列された星の様にいくつかの窓から明かりが漏れている。
3階に上がると立ち入り禁止のテープが貼られる所だった。
「あっ、凩せんせ〜」
未だ声変わりしたのかしてないのかよくわからない甲高い声が凩の名を呼んだ。
「歌無雄くん」
団地の狭い廊下にぎゅうぎゅうに詰められた警察たちの隙間を縫って中学生のような幼い顔の刑事が凩の下へやってきた。
その後ろにはガタイの良い首吊坂もくっついている。
「何があったの?」
「いや、先生の言われた通り僕と先輩とで朝戸さんの部屋に来たんですよ。鍵は開いてなくて中を調べたんです。
そしたら朝戸さんはお風呂場に首をつっこんでて…」
「死ん……殺されてたの?」
「いや、それがわからないんですよ。争ったり、抵抗した形跡は全然ないし、気絶させられて溺死させられたのかもしれないですけど 見る限り自分で死ぬまでお風呂に顔つっこんでたようにしか…」
「自殺にしても、大した精神力だと思います。海に身投げしたり首に重りでも付けて簡単に頭が水からで無い様にでもしないと あんなに簡単に息を吸えるような状態ではちょっと苦しくなってきたら本能的に顔を上げてしまうと思うんです。」
歌無雄が早口に説明した後、首吊坂がボソボソと補足した。
「それにですね、先生、朝戸さんの死に顔、笑ってたんですよ。幸せそうに。」
「…」
ありえない死に方をするのが毒田の病の恐ろしい所だ…
朝戸さんもきっと毒田の魔の手にかかって、結果命を落としてしまった。
こうなったら…
凩は一つの対策案があった。

警察に毒田のことを話そう。

逮捕までは出来ないにしても病屋周辺をパトロールしたり、今までの顧客情報を吐かせて保護するんだ…
「あの、お二人ともちょっとお話ししたいことがあるんです…。」
「? なんですか?先生」
「ここだと…どこか落ち着ける人気の無い場所で…」
凩のいつにない真剣なまなざしに歌無雄も首吊坂もどこか緊張した面持ちでじっと、凩を見据えた。

12

凩は歌無雄の運転する車に乗せてもらい一緒に警察署へ赴くことにした。
毒田のことはなるべく他の人には聞かれない場所で話す方が良いと思ったからだ。
運転席に歌無雄、凩は後ろの席に乗り込んだのだが何故か首吊坂は助手席ではなく凩の隣に座った。
夜の心臓町は町の明かりがどれもか弱くて、曇りの空に一粒の星も瞬いていない所為か、地面と星空が逆転してしまったようだ。
そんな夜の心臓町を外国製のおもちゃのような車が疾走する。
「あ、ちょっと、妹に連絡しないと…」
すっかり日も落ちている時間、電話の一つもしないときっと風花は夕飯も食べずに自分の帰りを待ち続けるだろう。
そんなのは可哀想だ。
凩は携帯を出すと風花の待つ我が家へ電話をかける。
「…あ、風花?ごめん、今日は帰りが少し遅くなるから、ごはんはある?…うん、ごめん。なるべくすぐ帰るからね。」
風花との電話を終え携帯を切ると隣に座っている首吊坂と目が合った。
「凩先生妹さんがいらっしゃるんですねぇ〜」
歌無雄はまるでタクシーの運転手のように運転席から話しかけて来た。
「うん。妹と二人暮らしなんだ、親はもうだいぶ前に…ね…」
「ああ…そうなんですか…でも心配じゃないですか?妹さん一人で留守番なんですよね?」
「そうなんだ。妹は体が弱いから泥棒でも入ったらと思うと気が気じゃないよ…」
「あはは、凩先生って意外とシスコンなんですね」
シスコンでも何でも良い。風花は自分の身がどうなろうとも守るに値する存在だと真剣に思っている。
歌無雄が楽しそうに会話を投げかけてくる中、首吊坂は無言で窓の外を眺めていた。
※無断転載厳禁・山井輪廻※
ついでに車の中で朝戸の状況を詳しく聞かせてもらうことにした。
「先生のから連絡があって、僕たちもう帰る所だったんで、署を出るついでに見てこようかって一緒に朝戸さんの部屋に行ったんです。
チャイム鳴らしても出ないし、窓を見ても明かりは付いてないようだったんで留守かと思ったんですけど、一応確認してドアを開けてみたら鍵、開いたんですよ。もしかしたら先生の言う通り何か事件に巻き込まれたのかと思ったんですけど…」
歌無雄はいつ息継ぎしているのかもわからないくらいポンポン言葉を発した。
部外者であるである自分にこんなに不用心に捜査内容を話してしまっても良いのだろうかとたまに思う。
「初めは部屋を間違えたかと思いましたよ。部屋の中はちょっと散らかってたんですけど、なんていうか家具とか小物とかみんな可愛らしいものばかりだったんで。でも表札はちゃんと朝戸だし、一応部屋の中を調べたんですね、そしたら風呂場に…」
「そうか…」
今の歌無雄の説明と伊吹の言っていた様に男性に何の疑問も抱かず恋してしまうことを照らし合わせてみて、やはり朝戸は性同一性障害で間違いないだろう。
「だけど不自然に足りない物がありますよ。あの部屋には鏡がありませんでした。きっと何か悪霊の襲撃を阻止する為に」
窓の外を眺めていた首吊坂がぼそりと割り込んで来た。
「ごめん、首吊坂くん、その話はあとで…」
鏡が無いのは確かなことは言えないが自分の姿を見ない様にするため、だろうか。

色々思案しているうちに警察署へ着いた。
だいぶ年季の入った建物に無理矢理補強と増築を行い、その所為でチグハグに積まれた積木の様に不安定な建物だ。
4階の不可解課に通される。
乙骨はすでに帰ってしまったのかそこにはいなかった。
「乙骨さんは他の事件でちょっと。前に肘山の山中で事故車と遺体が発見されてその捜査で」
心を見透かした様に歌無雄が言った。
「事故?交通事故なら他の部署なんじゃ…」
「いや、その事故って言うのがちょっと特殊で…、半年くらい前に手野高の女子生徒が肘山で転落死した事故がありまして、その時捜索隊が肘山で大破した車と側に男性の白骨遺体を発見したんですけど…」
「うん」
毎日病院からの帰り道にあの墓石を蹴る音を聞いているのでその転落事故のことはまだ覚えている。
なぜだかその事故すらも毒田が自分を病にかける為に仕掛けた罠のような気がして心のどこかでこれ以上聞いてはいけないと警告が鳴ったのだが歌無雄はそんなことはお構いなしに話を続けた。
「実はその遺体には…首が無かったんですよ。」
「首無しの白骨死体ってこと?」
「はい。野犬なんかが頭蓋骨持って行くとは思えませんし、それで捜査してたらどうやらその遺体は肉桂町で強盗殺人の被害にあった家で行方不明になってる家族じゃないかって」
強盗殺人、行方不明、肉桂町は心臓町よりも治安が悪くてそんな事件はしょっちゅう起こっている。
「本当は肉桂町の管轄なんですけど、肘山はこっちの管轄だし、変な事件かもしれないから乙骨さんが捜査協力してるんです。」
「へえ、乙骨さんも大変ですね」
「怒ってましたけどね〜猟奇課の奴が行けば良いのにってぼやいてましたけど、まあ僕らは猟奇課に比べて比較的暇ですし、それに肉桂町の人たちっておっかないんですよね〜乙骨さんが行くのが適任です。」
歌無雄は何故か自慢げだ。
確かに乙骨さんの顔は一睨みで体がすくんでしまう程恐い。
「それで先生、話って?」
首吊坂は来客用のソファにどっと腰を下ろし、歌無雄はコーヒーメイカーを立ち上げている。
「あの、この心臓町に病屋という店があるのご存知ですか?」
「あー病を売る店?」
首吊坂は敏速に反応する。
「え?何何?何ですか?」
歌無雄は急いでコーヒーとカップをお盆に乗せるとこちらへ運んできた。
「その病屋がですね、何らかの形で様々な事件を引き起こしているんですよ。」
凩が真剣に話すのを刑事の二人も真剣に耳を傾ける。
端から見ると真剣に話しているのが馬鹿らしくなるような荒唐無稽の話である。
「今回の事件も、さっきの話に出た転落死した女学生も、彼岸西さんの事件も、多分病屋が関わっています。」
「ちょ、ちょっと待ってくださいね。あの僕は病屋って知らないんですけど、先輩有名なんですか?それ」
歌無雄は首吊坂に尋ねた。こういう話は首吊坂の得意ジャンルなのだろう。
「病屋は、噂でしか聞きません。心の病を売る店で、辿り着けた人はすごく少ないって」
「でも私は何度も行ったことがあります。被害者が病を買う所も」
「それで、僕たちはその病屋を」
「ええ、これ以上被害者を出さない様にできれば逮捕してもらいたいんです。」
凩は強気で言い放った。
毒田が危険人物であることをもっとたくさんの人に認知させればきっと今までの様に興味本位で病を買って 憐れな末路を迎える被害者もいなくなるだろう。

凩は対毒田戦の味方を得られたためか心が大きくなっている。 「逮捕…ですかあ…でもその病屋がやったなんて証拠どこにもないですよねえ?その事件だって全然関連性無いですし…」
「だから、その被害者達が病屋で病を買った所為で死んでしまったんですよ!?」
弱気な歌無雄を気迫で押そうとすると首吊坂はコーヒーをカップに注ぎながら
「それ、面白い話です。」と呟いた。
すると歌無雄も「もっと詳しく教えてくれませんか?」と食いついてくれた。
凩は今まで病屋であったことを話した。
(彼岸西の幽霊に会ったことは信憑性が薄れそうで伏せたが)
首吊坂の目は爛々と輝いている様に見えたが歌無雄はまるで怪談話でも聞いているような怯えた表情で話を聞いていた。

病屋までの地図もメモ帳に書いた。
あんなに通り慣れた道のりなのに頭の中で整理しようとすると所々おぼろげになってしまうが なんとか道を繋ぎ合わせたり具体的な店名や道中の建物の色や外観も付け加える。
これだけヒントを提示しておけば警察も場所を割り出してくれるだろう。
「病屋、本当にあるんだ…」
メモを見つめ首吊坂は少々興奮気味だ。
「それで、朝戸さんはその病屋から自分を好きになる病を買った、と。」
歌無雄は調書のような物を記している。
「ええ、店主によるとその病の所為で自分の姿を認識出来なくなったらしいです。」
朝戸は自分の姿を他人と錯覚し、街中のショーケースのような大きな硝子に映った自分の姿に恋をしたのだ。 幻の正体は自分自身だった、というわけだ。

風呂場で命を落としたのも、きっと水面に映った自分の顔を見つめるか何かした所為だろう。
「そんな不可思議な病があるんですかねえ」
「ええ、実際あんな事件、病屋が仕向けなければ起こりえないですよ。」
歌無雄は今も半信半疑のようだが毒田を色々と調べればすぐに信用に変わることだ。
「では乙骨さんにも報告して、病屋の件調べてみます。情報ありがとうございました。先生!」
凩は歌無雄と首吊坂が味方についてくれたことがなにより心強かった。
あの毒田に敵うかどうかは置いておいて、素性のはっきりした人間が一緒だとあの指切り通りの掴み所の無い不気味な空気に飲まれることは無い様に思えたのだ。



凩は帰り際に警察署のトイレに寄った。
夜といえど少し蒸し暑くて顔や首筋ににじんだ汗が気持ち悪くて洗面台で顔を洗った。
眼鏡を外し、雫のしたたる顔が目の前の鏡に映った。
病屋で言い負かされそうになっていた時の毒田の言葉が不意に頭をよぎる。

「でもさ、不思議な物でしょ。だれも自分の顔はそのまま目に写すこと出来ないんだよ。鏡や写真を介さないと見れない。 鏡や写真を介してる間に何らかの力が働いて本当の顔を改竄したって自分には確かめる術はないんだよ。凩くんも僕が今見てる凩くんの顔と凩くんが思い込んでる自分の顔、全然違うかもねえ〜ぎひひ」

凩はその言葉にぞっとした。
確かに、自分の顔は自分の目では見れない。
他者に自分の顔がどう見られているかなんて、それは鏡や写真でしか知りようが無い。しかもそれが偽りなら…


凩は自分の顔に手をやった。
その造形を、感触をしっかりと手の平で感じ取る。

― 大丈夫。僕は僕だ。

― 僕は凩だ。
― 僕は凩だ。
― 僕は凩だ。

最後に両手で気合いを入れる様に頬をパンッと叩く。
毒田を、止めなければ。
鏡越しに映る凩の目がこれから戦いを挑むかの様にキッと前を見つめた。

ワタゲ:幻の人篇
― 終 ―