1

暗闇に溶ける通りの中に一軒の錆れた銀文字の看板を掲げる店がある。
その扉を開けるとコロンとベルが鳴った。
「おや、いらっしゃい。何をお求めですか?」
ケロイドと天然痘を模したような眼鏡で顔の上半分を覆っている不気味な店主は「ぎひひ」と口を三日月型にして笑いかけてきた。
「ここは、病を売る店だと」
「そうですよ」
「私は“生きる”が何なのかを知りたい。ちゃんと頭で理解できるよう、目に見える様に、手に触れる様に、そんな病はあるでしょうか」
「生きる、ですか…。それを知ってどうするんです?お客さん」
「どうもしません。ただ、知りたいのです。学者のはしくれとして、なぜ人は生まれ死ぬのか、生と死と言う対極を繋ぐものが一体どんな形をしているのかを」
「そうですねぇ〜それじゃこの薬をあげましょう。お代は1万円でいいや。」
「この薬はなんですか?」
「生きることを目に見える様にできる薬ですよ。ぎひひ」
「目に見える…とは?この薬は何でできているのです?これを飲めばどうなるのですか?」
「どうなるかはあなた自信です。学者のはしくれなら答えは自分で得るものでしょう。」
「そうですね…まあいいです。頂きます。」
私は不気味な店主にお札を一枚、そして軽く礼を述べてその店を後にした。

2

心臓町は不気味な街だ。
この土地にはある都市伝説がある。
なんでも心臓町が出来た場所はその昔黒魔術の大規模な実験場で、今立っているこの地面のなかには 儀式で建てられた呪いの遺跡があって、その中に9999体のミイラが眠っている。らしい。
しかしわざわざ整備された下水やガス管をかいくぐってまで掘り返して確かめたいと思う人間はいないので真実は未だに不確定なのだが、 住人達の心には心臓町の陰鬱な空気が作り出した単なる噂だということで丸く収まっている。
みんな曖昧模糊を埋めた町で今日も変わらず生活しているのだ。
隣の男がそんな話をつぶやくのを軽く耳に入れながら凩は地面に向けていた瞳に空をうつした。
春の始まりの朗らかさも感じられない、あいかわらずどんよりとした曇りだ。

「何か探してるんですか?」
空を見上げる凩の隣に黒いカーディガンのフードを被った体格の良い男が 同じく空を見つめて一言ぼそりと呟く。
「眩しい」

「首吊坂くん、今日仕事はないの?」
直角に折れ曲がった二本の金属棒を一本ずつ手に持ってぼうっと突っ立ているこの男、首吊坂は刑事である。
彼を一言で例えるなら“変人”であるが凩は仕事のよしみでそれなりに親しくしている。
今日は大脳公園近くにある心臓町の中央病院に患者の検査結果をもらいにいったあと天気も良いのでついでに散歩して帰ろうかと 公園の遊歩道を歩いていたところ首吊坂にばったり出会ったのだ。
「先生、ここのところあまり晴れの日は多くないですよね?」
常に目にクマを作っている首吊坂はけだるそうにつぶやいた。
「うん、そうだね。」
といっても心臓町では晴れの日自体が稀なのが当たり前である。
「何か事件?」
そう問うと首吊坂の目がぎょろりとこちらを見た。
「溜め池がね、枯渇する事件があるんですよ。心臓町内で。」
「枯渇?」
「そうです。謎なんです。ここの池も、水位が下がってます。」
大脳公園は森の中に大きめの池があってその周りを遊歩道がぐるりと巡っている。
首吊坂の言葉通り目の前に広がる池の水は確かに少し減っている様にも思えた。
「その謎を調べてるんだ?」
「ええ、きっと心臓町の地層に眠っている9999体のミイラが町の水分を奪ってるんじゃないかと考えてダウジングしに来たんです。」
「そ、そう…。」
「先生、信じてない」
「え?そ、そんな〜…ことは〜…」
素っ気なく投げかけられた首吊坂の言葉に真摯に答えるべきなのかいつも迷う。
「あ、僕はもう戻らないと昼休みあんまり長引かせると悪いから」
当たり障り無くその場を後にする口実、というわけではないが私はわざとらしく腕時計に目をやると首吊坂はふいと背を向け 「俺はもう少し調べてみます。」とノロノロと歩き出した。
「そっか、がんばってね。」
金属の棒を手に遊歩道を陽炎の様にゆらゆら歩く首吊坂を後にして凩は瘡蓋森の精神病院へと向かった。

3

心臓町の北、肘山の麓には原綿森という名の大きな森が広がっており、貝寄の寄生虫研究所もこの森の中にある。
この森を訪れる者たちの目的は様々だ。
春にはどこかの学校の生徒たちが遠足で訪れ、夏は川釣りやキャンプ、秋には赤く色づいた紅葉を見に散歩者が、そして冬には…
この研究所では肘山の四季を手に取るように感じられる。
貝寄にとって街からほど遠く交通に不便な立地の研究所でそこだけは気に入っているところだ。
しかしながらその研究所へ赴く足取りは重たいものだった。
原綿森の途中のバス停で降りて整備された国道から逸れた自動車一台がぎりぎり通れるほどの狭い山道を歩いて研究所まで向かうのだが、 その途中に古びた小さなトンネルがあるのだ。
いつ作られたのかもわからないほど年期の入ったそのトンネルはそこかしこ苔が繁殖しており、陽も差さない鬱蒼とした森の中に まるで闇の底へと誘うように不気味に口を開けている。
貝寄はそのトンネルを見る度足がすくみ、言い知れぬ恐怖が全身を駆け巡るのだ。
他の道と言えば肘山を大きく迂回して通っている電車で肉桂町まで行って引き返せばトンネルを通らずに済むのだが、 それではお金もかかるし時間もかかる。
トンネルさえ通ってしまえば後はなんて事ないのだから、わざわざ電車を使ってまで別の道で通うのは非合理的としか言えない。
それにこのトンネルが嫌な理由は些細なものだ。
不気味だから、というのもあるが第一はトンネルが『筒』だからなのである。
貝寄は筒状のものに恐怖を感じてしまう筒恐怖症である。
いや、これは恐怖なのか嫌悪なのか。このトンネル以上にストローやホースみたいな筒状のものが大の苦手なのである。
初めは少々不安な気持ちになる程度だった。何のことは無かったのに最近になってますますそれが顕著になって来たように思う。
だから毎回貝寄はトンネルに差し掛かると目を瞑り、湿った壁に手をついてそそくさと通り抜ける事にしている。
暗闇を一歩一歩進み、少しずつ出口の光で瞼の表が明るくなり、そしてぱっと明るくなったと思ったら目を開ける。
すると目の前で口を開けていたトンネルは消え、四季の移ろう木々に囲まれているのだ。
貝寄はほっと安堵の息をついた。
ここからは5分ほど歩けば研究所に着く。
公共の交通機関の無い場所は全て徒歩だった所為か足腰が疲労を訴えて立ち止まろうかと思ったが 数歩歩くと森の中に白い外壁の小さな研究所が見えて来て休憩を阻止されてしまった。
今はもう昼前だろうか。道路を虫食っている木陰の面積が朝よりだいぶ小さく思える。
いつもは真っ直ぐ研究所へ向かうのだが、もうずっと前から助手の高西に指切り通りの病を売る店へ行け、とうるさく言われたので今朝はそこへ出向いてきたのだ。
入り口まで近づくとなにやら良い匂いが漂っている。
無言で扉を開けると高西がテーブルで昼食を取っていた。
大きな皿にグラタンがいい具合にこんがりと焼けている。
「あ、先生お帰りなさい。どうでした?ちゃんと買えましたか?」
貝寄の姿を見て高西は優しげな、まるで聖母のような微笑みを向けると同時に グラタンを突いていたフォークの先にマカロニを差して貝寄に向けた。
「ヒッ!!やめろ!!」
「ありゃ?もしかして治ってないんですか?」
貝寄の様子を見てすっとんきょうな声を上げた。どうやら病屋で筒嫌いを治して来たものとばかり思っていたようだ。
「君が言うような店はなかった。というか、途中で馬鹿らしくなって戻ってきたさ。ああ、時間と体力を浪費してしまった。」
貝寄は高西がマカロニをぱくりと口に入れるのを見てから自分の体重を全て預けるようにどっと椅子に腰掛けた。
「もお〜だったら病院に引っ張っていきますよ?筒嫌いの所為で研究が捗らないでしょう?」
「病院は好かん。」
「全く…なんで筒が怖いんでしょうねえ〜?大学のときはホースで水やりとかしてませんでしたっけ?」
「理由は」
理由は、多分解っている。脳内にこびりついている二つの場面 あまりにも無慈悲で、あまりにも残酷で、あまりにも似ている、あの二つの場面の所為だ。

悲しげに黙り込んでしまった貝寄にもう慣れた事なのか高西はわざとらしく明るく振る舞おうとした。
「せんせっ、そういえば大学の卒業生で精神科医になった子がいるって聞いたんですよ〜ほら、何年か前に異食症かなんかの講義で精神医学科の子、受け持ったでしょ?瘡蓋森の病院って聞いたから、今からちょっと会いに行ってみようかな。」
「そうか…」
「病院が嫌なら、その子にここに来てもらえないか頼んでみます。」
高西はフォークの先で湯気の立ち上るマカロニをマイペースにふうふうと息を吹きかけて冷ましているがその目には貝寄を心配する色が見える。
椅子にもたれたまま憂いのまなざしで空虚を見つめている貝寄は一体何を考えているのだろう。
最近少しでも嬉しいことはあったのだろうか、一時たりともあのことを忘れることが無いのだろうか、
高西は、貝寄の表情の翳りの理由を知っている。

4

瘡蓋森にあるどこか異国情緒漂う精神病院は今日もたくさんの患者が診察に訪れている。
凩が大脳公園から戻ってくるともう午後1時を回っていた。
腹も空いたことだし、テラスで妹の作ってくれたサンドイッチでも食べるか、と診察室から昼食を持って出ると
「あー凩クン?!」
と、なにやら聞き覚えのある声が凩を呼び止めた。
声の主の名がぱっと思い出せない。
でも確かに知っている声だ。この声の主は…
「…た、高西先生?」
凩が顔を向けた先に一人の女性が立っていた。
すらりと伸びた足に整った顔立ち、しかしそれを着飾るものは皺のついたボーダー柄のシャツとジーンズで、ふわりとした長い髪も後ろで適当に縛っただけ。こんな所に着飾ってくるのもどうかと思うが、そのプロポーションが勿体無く思える程ぱっとしない格好だ。
「ひっさしぶりだねえ凩クン!」
高西は軽やかに凩に歩み寄るとあの頃となんら変わらない屈託の無い笑顔を凩に向けた。
高西は大学の先生なのである。
この人は生徒を皆「〜クン」と呼ぶのだが、そこに他の教授たちのような高圧的な感じは一切無く、昔と変わらず人の警戒心を一瞬で溶かしてしまうような不思議な魅力を纏っている。
凩が受けていた学科とは違うのだがある講義で寄生虫を扱うことがあったのでその時に知り合いになった。
スタイルは普通に生きていれば女性向けファッション誌のモデルにでもなれたのではないかと思う程抜群で、顔立ちも西洋人とのハーフかと間違うほど目鼻立ちのくっきりした美人である。
歳も結構上のはずなのだが凩の同級生だといわれてもまるで疑問が湧かないほど若々しい。
そのため大学に隠れファンが大勢いたのを覚えているが、高西先生はなにせ寄生虫の研究者なのである。
美人なのにいつも気持ちの悪い回虫のホルマリン漬けの入った瓶を大事そうに胸に抱きかかえていた姿が印象に残っている。
その寄生虫の授業以来ろくに会っていなかったのでよそよそしくなっても仕方ないハズなのに高西にとっては普通にあの頃と同じ感覚のままのようだ。
高西は誰とでも屈託なく接する人懐っこい性格なのでたとえ生徒であっても友達のように接してくれる。
きっと自分もその一人なのだろう。

「今日はどうしたんです?なにか悩みでも?」
高西の性格を踏まえると精神科にお世話になるような人物だとは到底思えない。
「いや、あのね、君が精神科医になったって聞いてさ、ちょっと相談があって来たの。ちゃんと受け付けは通したわよ。」
相談?あの高西がなにか悩み事だろうか。
とりあえず話はお茶でも飲みながら聞こうと思い高西をテラスに誘った。

5

テラスは病院の4階にあり、そこが最上階なので天井の一部が天窓になっている。
白い丸テーブルとプラスチックの椅子が20組ほど並べられており、その空間に木々と薄雲に遮られた弱々しい陽光が差し込んでいる。
他に客は休憩している先生や診察待ちの患者さんか、その付き添いの人らがちらほら見受けられた。
凩と高西は食堂横の販売機でコーヒーと紅茶を買い一番隅の席に落ち着く。
高西は長い睫毛を伏せて紙コップに入った紅茶を一口啜るとここへ訪れた理由を話し始めた。
「大学でさあ貝寄先生っていたでしょ?異食症を発症させる寄生虫の講義を受け持ってた」
「ああ、」
貝寄先生、懐かしいな。薄い頭でものすごく神経質そうな先生だった。
しかし自分たちが卒業して何年か後に娘さんが亡くなったとかで、その後講壇には立たずどこかの研究所で寄生虫研究に没頭していると噂で聞いた。
「私も今は大学を辞めて貝寄先生の元で寄生虫の研究をしているの。で、実はその貝寄先生のことで来たんだ。」
高西は話を続けた。
「先生、なんだろうなぁ…マカロニが嫌いっていうか」
「マ…マカロニ?」
高西がいくら変わっているとはいえ、あまりに突飛な発言に思わず声が上擦ってしまった。 「なんていうんだろうなあ。隙間…が嫌いなのかしら。」
高西の話は要領を得ない、というか、その先生のマカロニ嫌いが高西の相談事なのだろうか。
「私たちは今、体内で飼育する寄生虫の研究をしているの。マゴットセラピーってあるでしょ?簡単に言うとそれを応用して、変質してしまった細胞、まあ、癌みたいな悪い細胞を食べる寄生虫を体内で飼えないかって研究なんだけど、先生の隙間恐怖症の所為でそれが捗らないのよねえ。」
「隙間と寄生虫と何か関係があるんでしょうか?」
「え?それを訊きに来たんだけど。」
「え?」
そう言われても…
困った。具体的に何がどう問題なのかが掴めない。
「隙間恐怖症って治せないの?」
隙間恐怖症…凩は今までにそんな患者は診た事が無い。
貝寄先生がどの程度の症状を持っているのか、まずはそれを調べなければいけないだろう。
隙間と言っても様々だ。
少し開いた襖だって隙間だし、指同士をくっつけた時の僅かな間も隙間だろう。
「高西先生、もしなんだったらその、貝寄先生にうちに来てもらった方が…」
「あーあのね、先生病院嫌いなのよね。でもだんだんそれが悪化していってる気がして…私に出来る事があればって思って」 「そうなんですか。貝寄先生の病状もっと詳しく教えてくれませんか?マカロニ嫌いだけじゃさすがに…」
「うーん…ごめんね、上手く言えないんだけど、マンボウの解剖してる時に吐いちゃって、細菌とか極小の微生物は大丈夫なんだけど回虫は駄目みたい。ようは隙間と言うよりストローだとかチューブみたいな筒っぽいのが駄目なのだと思う。」
…マンボウ?
凩が怪訝な顔をしているのを見て何か察したのか高西は補足した。
「マンボウはね、腸内にたくさん寄生虫を飼ってるのよ。それが研究のヒントにならないかなって、漁場とか水族館で調達してきたの。」
「ああ、そうなんですか。」
高西の中では地続きの話題なのだろうが、事情を把握していない凩にとっては出てくるワードがあっちにこっちに飛んでいってしまうのでなかなか内容が繋がらない。それがすごく疲れる。
「ようは、貝寄先生の筒嫌いの所為で研究が出来ないからその原因を知りたい、と?」
「そう言ったつもりだったんだけど」
高西はえへへと照れたように笑った。
「で、筒嫌いはいつぐらいから…?」
「そうねえ、大学では割と普通だったでしょ?朝ホースで花壇に水あげてたりしてたし、多分娘の小夜ちゃんが亡くなってからだと思うわ。」
娘…
貝寄先生の娘さんは難病、というか奇病に侵されていて、在学中ずっと入院していると聞いた。
娘さんの死が何らかの形で筒嫌いに結びついたと考えるのが妥当だろう。
「ねえ凩クン、今度の休みの日でもうちの研究所に遊びに来ない?寄生虫以外何も無いけどさ。先生にも紹介して…」
駄目かな?と大きな目で訴えられると断れないだろう。
別に断る理由もないのだが、ただ寄生虫は気持ち悪いという印象しか持っていない。
あまり乗り気にはなれなかったが悩みのある人を放っておいてなにが精神科医だ!と変に正義感に目覚めてしまった。
「じゃあ、明後日休みなのでその日にでも…」
凩の返事を聞くなり「本当?ありがと〜!」と、高西は何の躊躇いも無く凩に抱きついて来た。
柔らかな髪の匂いがひどく女性的で無駄に心拍数が上がってしまった。

6

木曜日に大脳公園で待ち合わせという約束を取り付けた高西は笑顔で帰っていった。
凩は手帳をひらくと明後日の木曜日にとりあえず丸印を付けておいた。
寄生虫かー…
凩はため息をついた。実を言うと虫の類いがあまり好きではない。
稀に院内でもあの黒い虫が現れて看護婦の女の子達がひどく嫌がるので自分が退治してやるのだが いつも腰が引けていて端からみていると本当に滑稽な醜態を晒していると思う。
その嫌悪感はきっと見た目によるものだけなのだろうが、なぜそれだけの事であんなに背中がぞわぞわしてしまうのか。
それは自分でもよくわからなくてふと病屋の店主の顔が浮かんで思わず笑ってしまった。
― みっともないな。男のくせに。
この虫嫌いも病で治せるのだろうか、と天窓を見上げてみる。
すると視界の隅に蠢くものが入り反射的に仰け反った。椅子の足が大きな音を立てて床を擦る。
しかしよく見るとただ白いテーブルに赤茶色の雫が落ちていただけだった。
― 驚いた。高西先生、紅茶をこぼしたんだな?まったく。
凩はポケットティッシュを取り出してテーブルを拭きながら今の姿、誰にも見られていないだろうな?と一応周りを見回すがこちらを見ている人もいなかったので照れ隠しに軽く咳払いして診察室へ戻ることにした。

診察室の廊下に差し掛かるとなにやら看護婦の女の子達が入り口に屯している。
「何?どうかしたの?」
そう声をかけると看護婦達はぱっと入り口を開けて「凩先生、お客さんみたいです」と教えてくれた。
看護婦達はきゃあきゃあと色めき立っているようだ。
今日は客が多いな。そう思って診察室に入るとそこにはもう春だというのに重苦しい黒いマントを羽織った壮麗な青年、白骨の姿があった。
ああ、このせいで女の子達は集まってたのか…
彼の人形のような顔立ちを見てそう納得してしまった。
打放しコンクリート壁の薄灰色に佇んでいる黒いシルエットが診察室全体に背筋が薄ら寒くなるような冷たい調和を生み出している。
「白骨さんお久しぶりですね。今日は何か?」
椅子を勧めると白骨は音も立てずに腰を下ろした。
「凩、君は死と言うものをどう考える。」
「へぁ?」
第一声に問われた唐突な質問に妙な声が出てしまった。
死…
死とは一般的に人生の終わりと考えるものだろう。
人が生きる事に縋る限り死とはとても悲しく無慈悲なものだと思う。
「この心臓町はそこらへんが曖昧な気がしてね。私は葬儀屋としてそういう者達をちゃんと送らねばならないと思うのだが」
「あ、あのご用件はなんなんでしょうか?」
話が不穏な方向へ行きそうで凩は急かした。
ただでさえ死神のような風貌の白骨が死について尋ねてくるといっそうの不穏さが醸し出される。
それに白骨の事だからまたなにか不思議な事が起こるのではないか?
無意識にそう身構えてしまう。
「む、暇だと思って立ち寄ったのだが忙しかったか?すまなかったな。」
「あ、いや今日はもう新規の来診が多くなければ暇なんですけど…」
「そうか。それならば」と白骨は安心したように話を続けた。
「凩、病屋へはあれから行っているか?」
「え、…えっと…」
白骨には前に病屋にはあまり関わらない方が良い、と忠告を受けていたのだが どうしても未だにあの店への興味は薄れないでいた。
病屋にはなにか秘密があるのだろうか。
中途半端に知ってしまったものを途中で隠されてしまうと余計に全貌が知りたくなってしまうものだ。
「君が生きていたいのであればあまりあの店には関わらない方が良い。今日ここへ来たのは友として忠告しに。あとは、世間話だ。」
「え、あの、」
生きていたければ?病屋に関わると死ぬとでもいうのか?凩は戸惑う。
そういえば、思い返すと恵ちゃんも明日香という女学生も彼岸西さんもみんなもう…
北風に吹き晒されたように体がゾクリと戦慄いた。
「白骨さん、毒田さんって何者なんです?病屋って」
「言いづらいがアイツは外道と言うべきか、とにかく生に対する固執はアイツの前では無力になる。それだけは覚えておいた方が良い。」
外道…その言葉はなんとなくしっくりくるのだが…
「忠告は終わりだ。凩、君は好きな食べ物は何だ」
「え?えっ?」
唐突な話の終わりに再び戸惑う。
「ていうか、あの、さっき友…って」
「私が友達では不満か?」
「い、いや滅相もありません…」
彼岸西の一件で白骨は自分の事を“友”として認識したのだろうか?
その“友”という定義に毒田と似たものを感じた。
「私は乾物が好きだ。保存がきくからね。」
「そですか…」
どう返していいのか返答に困っている凩に白骨は顔には出さないもののいささか困惑しているようだ。
「君は食べ物の話題よりも死についての話の方が良いのか?」 「そんなことはないですよ。はは…」
凩の露骨な愛想笑いに白骨は顎に手をやって少し困ったような顔をした。
「世間話というのは難しいな。これといって話題が思いつかない。」
「いや、無理に話さなくても…」
白骨にとってはさっきの死についての質問と好きな食べ物についての質問は同じ世間話のカテゴリなのだろうか。
あまりの話題の振り幅に着いていける気がしない。
「ああ、そうだ。最近この界隈で黒い服の少年が現れている。みつけてもなるべく近寄らない方がいいぞ。」
「黒い服の少年ですか?」
「ああ、私でも正体がわからない。ただ、危険なものを感じる。」
「わかりました。気を付けます。」
本当は黒い服の少年だけでは情報が少なすぎてあまり真剣に捕らえられなかった。
しかしとりあえずその言葉に納得したのか、それとも話題が尽きたからかはわからないが白骨はすっと立ち上がり「邪魔をしたね。」と診察室を後にした。
黒い影が診察室の外に消えてしまうと、どうせこれ以上ここにいても気まずくなるだけだと思っていた凩はなんとなくほっとしてしまった。
突然、外で鴉達がギャアギャアと飛び去っていったので何気なく窓の外を見てみる。
外来口に黒いマントを羽織った白髪の人影があった。
― あれ?白骨さんもうあんなところにいる…
しだいに生い茂った木の葉に隠されてゆくその黒影を見送って凩はとりあえず中央病院から受け取ってきた検査結果の書類の整理に取りかかった。
― 毒田さんは本当に何者なんだ?本当は危険な人なのだろうか。
※無断転載厳禁・山井輪廻※
第二の来客は凩の心に真っ黒な靄をひとつ残していった。

7

研究所に戻ってきた高西はえらくはしゃいで精神科医が来てくれる事を告げた。
病院という空間が嫌いな貝寄にとってここまで診察に来てくれるというのは有り難いのだが、 大学の卒業生ならまだ若いのだろう。正直、誰に診てもらおうがこの筒恐怖症を治せるとは思っていない。
それだけ筒がこの心に与えている傷がとても深いことを自覚している。
「それよりも高西君、細菌のサンプルと管理表、どうも数が合わないのだが、もしかしたら棚の奥に転がっているのかもしれん。」
貝寄は細菌を培養しているガラス棚の下にある僅かな隙間に手を差し込んで中を探っていた。
掌を引っ込めても指先に埃がついただけで終わった。
「その管理表ってだいぶ前のもありますよね?書損じじゃないですか?」
「そうかもしれんが、細菌は危ないだろう。皮膚に寄生する奴かもしれん。」
「今頃探したって…もうどうせ死んでますって。」
高西は物置から小箒とちりとりを取り出して貝寄が撒き散らかした埃を簡単に掃き始めた。
貝寄は暇だったのだ。
回虫の研究は筒嫌いの所為で出来ない。だからこんなことに時間を食わせてしまう。
「先生、明後日ちゃんと診てもらって、筒嫌いをちゃんと治すのが先決ですよ?」
「そうなんだが…」
貝寄の心には焦りが積もっている。
「私、先生の助手ですよ。もっと信用して下さい。研究、きっと成功させましょう。」
高西の気遣いは身に沁みる。でも、この子は…
貝寄がうなだれる肩越しに振り返る。
高西はいつものように何の曇りも無い笑顔を向けていた。

8

凩は一抹の後ろめたさを感じながらまたこの通りに足を踏み込んでいる。
今日、突然病院に尋ねてきた白骨、きっとこの不可解な店に対して何かがあったんだ。
そうでなくても病屋とはなんなのか、毒田とは何者なのか、未だ明確な答えを得た気がしない。
今日は、それを確かめに…
いつもと変わらない軋むドアを開けるとコロンとベルが鳴る。
「あ〜凩くん!最近来てくれなかったから寂しかったよ〜」
カウンターテーブルの奥で毒田は口を三日月型に手をぶんぶん振っている。
店内は埃っぽい割に毒田が手を振っても埃は思った程舞い上がる事は無かった。
「毒田さん、あのちょっとお訊きしたい事が」
凩はじわりじわりと奥へ進んだ。
「何?」
「白骨さんって、お知り合いですよね?何者なんでしょうか?不思議な人だと思うんですが」
「ああ、彼ね、ただの人間だよ。」
それはまるで信憑性を得ない答えだ。
「でもまあ、あの葬儀屋さんは普通の人より霊感の強さが桁違いだけどね。」
「霊感…ですか?」
またオカルティックな方面に話が進みそうだ。
「葬儀屋さんに何か言われたんでしょ〜?僕が外道だとかさ。酷いよね〜」
それは…当たっているが…
毒田は凩のいつになく不穏な心を見透かしているかのようにぎひひと笑った。
凩は思い切って話を切り出した。
もし、確信に触れているのだとしたら、自分もあの患者達のように死に追いやられてしまうかもしれない。
凩の不安感は心に暗雲のように立ちこめる。
「気を、悪くさせてしまったらすみません。あの、あなたは関わった人間を死に追いやっているのではないかと…そう、思ってしまうのですが…」
おずおずと切り出した割に毒田の表情はなんら変わらないまま 「凩くん、ここは病屋だよ?病が命を奪ってしまうことがあるのは至極当然の考えだと思うけど」
と言った。
毒田はぎひひと笑っている。
笑っているのだ。
何がおかしいのか…この人は、ずっとわかっていて…
「僕が恐ろしい?凩くん。」
毒田に対して、あの黒い虫と対峙する時のような恐怖心がじわじわと体を蝕んでゆく。
足の筋肉が小刻みに震えているのがわかった。
「こ、ここで病を買っていった人を教えて下さい!!僕はその人達を救います!!」
「死なないように?ぎひひ。無理だねえ。人間死ぬときは死ぬんだよ。ここに来ても来なくても。」
無理に奮い立たせている凩の勇気は毒田にのらりくらりとかわされているようだ。
「でも病を買わなければ死なないのでしょう?!」
「人生の終わりを僕の所為にしないで欲しいねえ。」
毒田の言葉はいとも簡単に凩を一蹴してしまう。
「ここに来るお客は望んで病を買ってるんだよ。そのこと忘れないでよね。その先に死があるのはお客じゃなくても人間誰でもそうなの。」
駄目だ…毒田には勝てる気がしない…
虫は自分達の方だ…
強大な天敵になす術も無いちっぽけな虫だ。
毒田はそれを笑いながら啄む真っ黒い鴉なんだ。
僕たちとは生きる次元が違う生物なのだ。
「あなたは…何者なんですか…?」
出会ったときの猜疑心で見ていた頃のような毒田の印象はどこかへ消えた。
この人は、本当に、本当は…

「ぎひひ。ただの病屋だよ。」

9

「む…一体どこへ消えたんだ?」
昨日から無くなっている細菌のケースを探しているのだが一向に見つからない。
しかも研究所内を探し回るついでに回虫の飼育器周辺を除いて隅々まで掃除してしまった。
おかげで気が付くと丸一日掃除に費やしてしまったようだ。
貝寄はふう、と、ため息をついた。
昔、掃除機でぴょこぴょこと逃げ惑う小さな蜘蛛を思わず吸い込んでしまったことがある。
蜘蛛は掃除機の中で圧迫され死んでしまうのか、それともしばらくは生きているのだろうか。そう考えた。
生きているのだとしたら今まで澄んだ空気のだだっ広い世界が一瞬で埃にまみれたゴミ溜めの世界に変わって 一体何を思うのだろう。
混沌に埋もれながら死を覚悟するのか、絶望しか無いのか、戸惑ったままで命が尽きるまで順応するのか…。
無意味に想像して、そして酷く恐ろしくなった。
掃除機も、筒だ。

時計に目をやると夕方の6時にさしかかっており辺りは薄闇に包まれ始めている。
高西は明日精神科医を連れてきますからね。と念を押した後、帰路についた。
そんなに私を精神科に診せたかったのだろうか…。
しかしそんなことで本当に筒嫌いは治るのか。
貝寄は自分の研究室のデスクに座ったまま、まだ帰る気配を見せない。
帰っても、どうせ独りだ。
蛍光灯に小さな蛾が舞っていた。
前はこの部屋の壁沿いに堂々と置かれていた回虫の飼育器に今は大きな布が被せられている。
この中には肉食性の回虫が居る。
それは寄生虫の中でも大型で太さは5mm程度、長さは20〜30cm程。その生きた筒がこの布の向こうで蠢いている。
筋肉に出来た腫瘍を食べさせるために改良した、安全性が確立されれば必ず人の命の役に立つであろう自慢の虫だ。
そうなのだが高西に頼んで今は姿が目に入らないよう布をかけてもらっている。多分、そうしないとこの部屋にはいられないから。
私の願望を叶えるためにはこの回虫が必要なのだが、筒恐怖症の所為で今は細胞外液に浸食できる細菌やアメーバの研究にしか取り組む事が出来ず回虫の研究は高西に任せっきりになってしまって少々申し訳ないと思っている。
はやく筒恐怖症を治さなければ。あの病の治療法を確立することが2人に対して私に出来る唯一の手向けなのだ。
貝寄は骨張った手をじっと見つめると机の抽き出しから一枚の写真を取り出した。
「小夜…すまんな。こんなお父さんで…」
写真には妻と2人で楽しそうにこちらに笑いかける娘、小夜の姿が昔と変わらずに存在している。
小夜は妻に似てとても美人だ。きっと、美人に育つはずだった。
ああ、神はなんと残酷なのだ。
その写真を眺める度そう思う。
なぜ、人は突然死を与えられるのだろう。
しかも行いの善し悪しに関わらずあまりにも残酷な死に方を与えられる者がいる。
貝寄はふと思う事がある。
生と死は隣り合わせなのに質量を持つ己自身と鏡に映った己の虚像のように全く異質のものである。
その境界はどこにも無く、生きていれば生きているし、死んでいればどう足掻いても生きていることにはならない。
しかし、思うのだ。
その境界はきっと筒なのだと。
死ぬべき体に生を送り込む筒、筒は生と死を繋ぐことができるのだと。
だからこんなにも恐ろしいと思うのだ。

私の大切な人が謎の奇病で死んだ。
その病は筋肉の細胞の一部が粒状に硬化し、やがてその粒は全身に広がる。
例えるなら筋肉の中に無数の弾丸が埋め込まれた状態とでも言おうか。
体を動かそうとするにも激痛でまともに動く事はできないらしい。
治療法は無く、腫瘍を全て取り除くとまるでアイアン・メイデンで拷問された囚人のように全身が穴だらけになってしまうだろう。
それで仕方なく投薬によって生命を繋げ、辛い辛い闘病生活を強いられる。
幼い貝寄が見た母親の姿は無数の延命装置に繋がれていた。
優しくて大好きだった母がある日突然この奇病を発病しそれからはもう毎日毎日苦しみ、 死なないようにたくさんの筒で命を繋いでいる状態だった。
しかし回復の見込みなど無くて、結局父や祖父母は母を楽にする事を選んだ。
体に繋がれた沢山の延命装置の筒を外して…

しかし恐ろしい事にその病は遺伝性を持っていた。
娘の小夜は10歳で発症し、小さな体で母と同じように毎日毎日苦しんでいた。
風の無い部屋、無機質な鼓動、絶望すらも抹消してしまった虚ろな瞳…
そんな場面を2度も経験した。大切な人がなす術も無く死に繋がれ壊れてゆく様を…。
その痛ましい娘の姿に妻は発狂してしまい結局籍を外し別居している。今は他人だ。
私は、この病を何としても治したかった。母や娘と同じような苦しみを背負わなければならない人々に希望を与えたかった。 それでこの研究を思いついたのだ。

今はこの肉食性の回虫を筋繊維に入り込めるくらい小型化し、なるべく人体への負担が少ないように改良する研究をしている。
医療として確立させる事が出来れば筋肉に出来た腫瘍を全て取り除く事も出来ると思う。
難しい研究だし、自分が生きている間に完成させられる自信も無い。
だが、貝寄にとって寄生虫の研究はあの忌々しい病と戦う唯一の術なのだ。
そして椅子から立上がると被された布の前に立ち己を奮い立たせてそれに手をかけた。

10

被された布を捲るとさっきまで研究所にいたはずなのに何故かあの不気味な通りに立っていた。
今は夜なのか、墨のように真っ黒な雲に空は覆われている。
弱々しい街灯に照らされる通行人達は、みな異界の者のようにどこか違和感を覚える。
ふと見上げると〈病屋〉と記された看板を掲げた店を見つけた。
錆びれた銀文字が暗闇の中、街灯にぼんやりと照らされている。
― ここは…
貝寄はふらふらと入り口に歩み寄る。
扉を開けると軋んだ音がしてコロンとベルの音が鳴った。
「いらっしゃい。」
雑然、整然、どちらの印象も受ける不思議に物が詰まれた店内の奥に、これまた不思議な店主がこちらに笑いかけていた。
「ここは、病屋…?」
「そうだヨ。」
貝寄は一歩一歩おそるおそる奥へと踏み出した。
店主の顔面は上半分がケロイドのように爛れている。いや、よく見ると爛れていると思ったのはただの装飾品のようだ。
「わ、私は筒が怖いのです。筒嫌いを治せる病はありますか?」
「筒ね。うんうん。大丈夫。筒大すきにしちゃえるヨ!」
不思議な店主は不気味な様相とは違い、だいぶ人懐っこそうな口調だ。
カウンターテーブルの向こう側に詰まれた箱の中をごそごそとまさぐってひとつの小さな薬瓶を手渡した。
蓋にはちゃんと封がしてあるのだが中身は謎の液体が底の方に少し入っているだけである。
「これは?」
「えーっと生物細胞促進剤だって。」
見ると小さな薬瓶はとても古いらしくボロボロになったラベルが張り付いていて、掠れた文字で『生物細胞促進剤』とかろうじて読める。
「あの、筒嫌いを治す病がこれなんですか?」
「いんや〜、これはオマケって奴?お客さんみたいな人、僕好きだからね。特別のオマケだよ。」
店主はぎひひと笑っている。少し、危ない性癖の人なのだろうか?
「お客さん、筒が怖いなんてピンポイントだよねえ〜まあ先端恐怖症とか蜘蛛恐怖症とか、そういうのもピンポイントなんだけど」
店主は凛とした声でころころとしゃべった後、癖なのか再びぎひひと笑った。
「筒は、筒は恐ろしいです…生と死を曖昧にする。繋げてしまうんだ。」
「そっか〜お客さんは死を怖れるあまり生きていることすらも怖いんだね。」
楽しげに貝寄に向けられた店主の指が節足動物のように蠢いている。
「…そう、なのだろうか。やはり」
「人が死を怖れる事は何となくわかるよ。自分が無くなっちゃうんだもんね。」
店主の言葉には不思議と貝寄の心を納得させる魔力を持っているようだ。
たぶん、この店主の言う通りだ。
死ぬのは恐ろしい。あの2人のように生と死の入り交じった境界で苦しみながらそれでも生き続けるのは。
そしてその状態を作り出し持続させるのが筒である。
母も娘もそうだ。筒によって生と死の境界を曖昧にされた。
「でもね、お客さん、人間も動物も植物もみーんな“筒”ですよ。ぎひひ。」
店主が楽しげに放った一言は貝寄の体を打ち抜いた。
ああ、そうだ筒だ…、人間が、私も、母も、娘も、
店主の一言がきっかけに何故か筒に対して嫌悪感ではなく不思議な高揚感が溢れ出し貝寄は気を失った。

11

「先生、風邪引きますよ」
掌の感触が肩を揺すって貝寄は目を覚ました。
「まったく、少し温かくなってきたとはいえ、床なんかで寝てたら風邪引いちゃいますよ。」
貝寄は軋んで痛む体をゆっくり起こすと長椅子に寝かされていることに気が付いた。
きっと床で気を失っていた自分を高西がここまで運んでくれたのだろう。
なんだか夢を見ていた、いやあれは夢だったのだろうか。
昨日の晩、私はあの回虫の飼育器にかけられた布を捲って…
しかし飼育器には昨晩と同じように布がかけられている。
「先生、私今から精神科医の子、連れて来ますから。ちゃんと顔洗って、その寝癖も直しておいて下さいよ。」
「ああ、…」
酷く虚ろにそう返すと高西はため息を一つついて
「先生。これ、栄養剤買ってきたんで。ちょっと疲れてるみたいだから飲んでくださいね。」
と言って貝寄の手に小瓶を握らせると無造作に縛られた髪の毛を軽やかに弾ませながら研究所を後にした。
しばらくするとバイクのエンジン音が鳴り次第に遠ざかってゆく。
時計を見ると針は9時25分を差していた。
「…」
手の中の栄養剤を見つめる。
汗ばんだ手をひんやりと心地よく冷やす。

― そういえば夢でこんな感じでなにか瓶に入った薬をもらったような気がする。
― だめだ、もう思い出せない。なんという薬だったなかあ。
貝寄の目線の先には布のかけられた回虫の飼育器がある。
目が覚めてから酷い倦怠感に見舞われ貝寄は高西にもらった瓶に手をかける。
すこし苦い液体を飲み干すと「よし!」と気休めのかけ声と共に足を踏ん張らせて立ち上がった。
全身が痛む。軋んでまるで錆び付いたブリキ人形になった気分だ…。
だけど今はどうしても、あの回虫のことが気になってしかたない。
不思議な気分だ。あんなに恐れていた回虫が今は一刻も早くこの手で抱きしめたいとも思える。
うまく上がらない足でふらふらと飼育器に近寄り昨晩と同じように布に手をかけた。

12

高西と約束したのは10時だ。
大脳公園まではバスで10分もあれば着く。
車で行っても良いのだが、原綿森はあまり道が広くないと聞いたので高西のバイクの後ろに乗せてもらう事になっている。
のんびりと風花の入れてくれたコーヒーを啜った。
「お兄ちゃん今日はデートなの?」
風花の少し厳しい口調に凩は少し咽せてしまった。
一昨日久しぶりに会った高西のことを話した所為かあらぬ誤解を招いているようだ。
「いや、ちが…っげほっげほっ…診察だよ。大学の先生だった人がね、」
「ふーん。」
風花はやきもちを焼いてくれたようだ。嬉しい。
「お兄ちゃんだってなあ、あんまり乗り気じゃないんだ。今日行くのは寄生虫の研究所だし…」
その言葉に風花は嫌そうに眉をしかめた。
「寄生虫の?うわぁ…大変なのね…。」
風花が同情してくれた。嬉しい。

そろそろ行くか、とあまり気乗りしない体に上着を羽織って玄関口に立つといつものように風花は笑顔で見送ってくれた。
今のうちに綺麗で可愛いものを見て目を保養しておくとしよう。

バスに乗り大脳公園の手前にある手野平高校前のバス停で降りる。
歩道へ降り立つと今日も曇りの空が広がっていた。
春だというのに陰鬱な天気だ。
公園は敷地が広い。高西が待っていると言った駐車場はここからだと池のある森を挟んだ反対側だ。
遊歩道を囲む木々は何故か未だに春の訪れに気付いていないような覇気の無さでその木の輪のなかを少し急いだ足で通っていると途中にある池の水が涸れているのが見えた。
ついこの間まで薄汚い緑色を湛えている池があったのに今はその場所は大きく窪んでいるではないか。
そういえば首吊坂が池の水が減っていると言っていたっけ。
日照りでもないのにこれは何か原因があるのだろうか?と水が無くなった池の底を眺めながら歩を進めると、突然目の前に大きな鴉が舞い降りてきた。
「うわっ!!」
大きな鳥の化け物に連れ去られてしまうのかと心底びっくりしたのだが、 鴉だと思ったのはソレが黒い服のやたら大きな裾をひらりと舞わせていた所為だと気が付いた。
鴉はどうやら電灯に登っていたのを飛び降りてきたらしい。
※無断転載厳禁・山井輪廻※
その正体は痩せこけた少年だった。 少年はこちらを睨みつけるように凝視している。一応後ろを振り返ってみたが辺りには人1人いない。
「あの、だ、大丈夫?」
凩の言葉に少年は少し肩の力を抜いたようで、少年がさっきまで纏っていた得体の知れない近寄りがたい空気が何となく薄まった気がした。
「くびつりざか、どこ?」
「え?」
少年の発した言葉に驚きと納得が同時に湧き上がる。
― なんだ、首吊坂くんの知り合いだったのか。
まあ、首吊坂なんて縁起の悪い名前を持っているのは真っ先に頭に浮かんだ彼一人だけだろう。
「えっと、警察署だと思うけど、」
「けいさつしょ、どこ?」
ひどく無愛想な言い方だった。一体この子はどんな教育を受けてきたのだろう。モノの尋ね方も知らないのか。
しかし最近では礼儀など知ったこっちゃ無い子供も増えてきているようだから、と凩は 親切に警察署までの道のりを教えて上げた。
「あんた、いいひと?くびつりざかのしってるひと?」
「そうだね。わるいひとじゃないよ。首吊坂くんとはなんていうか、知り合い。かな。」
首吊坂は性格は良いのだが、何を考えているのかよく分からない所があるので正直あまり関わりたいとは思わない。
「そっか。じゃあいいひと。ありがと。」
少年は少し微笑んですぐに教えた方向へと走っていった。
さっきまで無意味に睨みつけられていたので不意に微笑んだその顔がすごく可愛らしく思えた。
駐車場まではもう少しか。
凩は腕時計を確認して少しだけ、歩く速度を上げた。


レンガの敷き詰められた細い遊歩道の先は木々が避けて駐車場のコンクリートが広がっている。
隅っこに年代モノだがよく手入れされた空色のバイクとそれに長い足を伸ばして腰掛けている女性の姿が見えた。
こちらに気が付くとぶんぶんと大きく手を振った。
「あ〜よかった。遅れるかと思ったけど間に合ってたみたいね。ごめんね。お休みの日に付き合わせちゃって〜」
高西は申し訳無さそうに笑った。
「高西先生、おはようございます。あの、別に気にしなくて良いですよ。休みとかそういうの関係ないと思っているんで。」
「あらそう?」
「あ、まだ時間大丈夫ですか?ちょっと喉渇いちゃって。」
「大丈夫よ。何か買ってくる?」
高西は親指を後ろに差すとその先にジュースの自販機が置いてあった。
お茶を買おうと高西の横を通り過ぎようとしたのだが自販機に向かうのを阻む様にバイクからぴょんと降り立った高西が凩の先を歩き「何が良い?」と訪ねる。
休日出勤の代償でも払おうというのか、凩は年上の好意に甘えて「えっと、お茶を」と控えめに答えると 高西は「ヘルシー志向なのね。」と軽く笑って自販機の緑茶とレモンティーのボタンを押した。

飲み物を飲んで一息ついた二人の周りで風が木々をざわめかせる。
「ねえ本当は寄生虫、楽しみなんじゃない?」
と高西が不意に放った言葉に「いや、それは無いです。」と断言した。
「先生、研究所ってやっぱりあのサナダムシみたいなのがうようよしてるんですか?」
凩の頭の中では壁一面にうねうねと蠢く寄生虫の入ったケースが所狭しと並べられている。
想像しただけで軽く鳥肌が立った。
「サナダムシねえ、そういう系は大丈夫よ。先生がアレでしょ?だから布で見えないようにしてあるの。」
「そうですか。」
凩は安心した。
「でもほかの細菌とか微生物とかは普通に飼育されてるんだけど、それも苦手?」
高西は凩の態度からあまり寄生虫が好きではないと見抜いていたようだ。
「そういう細菌だとかも寄生虫なんですか?」
「まあね、小さい方が小回りが利くでしょ。小さい子達は脂肪だとか皮下組織だとかを分解させたり…その中でも強い子は古い角質も健康な皮膚もいっしょくたに食べちゃったりするから結構危険なんだけど、ピンポイントで悪い細胞を食べてくれたら大きい虫を飼うよりそっちの方が楽でしょ。体力的にも精神的にも。」
「へえ〜、でも脂肪分解するんならダイエットとかそういう面でも需要があるんじゃないですか?」
凩の言葉に高西は目を丸くして
「おっ!そのアイディアいただき〜!そっちで特許が取れればすごくお金持ちになれそうね!」
とノリノリで肯定してくれた。
高西にとっては寄生虫の話題はとても話が弾むようだ。
「ふう、それじゃそろそろ行く?ちゃんとしたお茶御馳走してあげる。」
高西は空のレモンティーの缶をゴミ箱に向かって投げると一度ふちにぶつかって見事中に入った。
ヘルメットを渡され高西の後ろにまたがった。
バイクの2人乗りは初めてで怖い。それに少し緊張する。
「凩クン、結構背高いんだね。」
「そ、そうですか?普通だと…」
「ほらほら、ちゃんと捕まって!」
高西はたじろいでいた凩の腕を掴むとしっかりと自分の胴に回して繋がせて、勢い良くエンジンを吹かすと風のように研究所へ向かって発進した。

13

バイクはそれほどスピードを出していたわけではないのだが 凩はバイクのバランスの取り方にイマイチ自信が持てなかったので原綿森までの道のりは生きた心地がしなかった。
密着した高西の背中に脈打つ自分の鼓動が伝わっているのではないかと思うと少し恥ずかしい。
ヘルメット越しに見る街並は車や電車から見る景色とは流れ方も違っていて少し新鮮だった。
ようやく森に入って途中、古い小さなトンネルを抜けると案外すぐに研究所に到着した。
真っ白い壁でこじんまりした宿泊所のような印象を受ける。
「到着〜」
高西がヘルメットを外すと少し汗ばんで湿気った髪の毛がくるりと背中に降りてきた。
「ここですか、良い所ですね。」
本当はこんな所に研究所があって買い出しなんかは不便そうだなという印象だったのだが 自然に囲まれて静かなこの場所はやっぱり良い所だと思う。
「お世辞は良いわよ〜お昼もまともに買いに行けないんだから。」
高西は軽やかなステップで研究所の入り口まで案内した。
「せんせ〜今戻りましたよ〜」
ドアを開けて大声で貝寄を呼ぶ。
入り口からすぐの所に大きなテーブルがあってその向こうにまたひとつ扉がある。
今の所、寄生虫らしきものは見当たらないのでその扉の向こうが研究室になっているのだろう。
「トイレかしら?凩クン、どうぞ上がって。」
おとなしく高西の後ろに着いて研究所へと入っていった。
「先生〜?」
高西は奥の扉を開いた。
「…え?…やだ?なに?」
扉を開けると高西は突然固まったように動かなくなってしまった。
なんだか微かに妙なニオイが鼻を突く。胃液のような血のような…
凩はつま先立ちして高西の後ろから中の様子を伺った。
「なっ…」
扉の向こうは想像を絶する光景だった。
貝寄先生が床に倒れている。
その周りに培養液とおぼしき薄黄色の液体が水たまりを作っており、その中を足の踏み場もないくらいおびただしい数の回虫がうねっていた。
普通ならば寄生虫の入った容器を盛大にひっくり返してしまった、と捕らえる方が普通だろうが、 よく見ると虫達は明らかに貝寄の体から出てきていたのだ。
「なんだよこれ…」
貝寄の口や鼻の穴から無数の回虫が溢れうねうねうねうねと蠢いていた。
「先生?!やだ!!これが…?!どうしよ凩クンどうしよう!!」
高西はひどく混乱している。
目を逸らしたいのに貝寄のあまりにも異様な姿に脳の半分はどこか冷静にこの状況を分析しようとしている。
貝寄のズボンや胸の辺り服の下に何かが這っている様に服の皺がぐねぐねと小さく波打っている。
それに頬や襟から覗く喉元に不自然に纏わり蠢く白いものを見た。
― 寄生虫が、皮膚を…
凩は胸が圧迫され喉の奥から水っぽいモノが逆流するのを感じた。

14

あの吐き気を催す惨劇で貝寄は全身を寄生虫に食い破られていたがなんと奇跡的に一命を取り留めた。
本当はもう思い出したくもない場面なのだが、一応当事者として見舞のひとつもと思い、休憩中に心臓町の中央病院へ様子を見に行った。
ガラス窓越しにしか中の様子が見れない病室のベッドに貝寄は包帯まみれのミイラのような格好で 全身にたくさんのチューブを装着されている。
気管に穴が開いていたようで喉から直接大きなチューブで空気を送られている他にも栄養剤や血液の点滴で体にたくさんの管を繋がれていた。
僅かに包帯が避けているその口元は恍惚とした笑みで歪んでいるように見えた。
精神病院に戻ると駐車場に高西のバイクが停めてある。案の定受け付けに彼女の姿を発見した。
聞くと貝寄の入院している病院に行ったついでにこちらにも立ち寄ったらしい。
どうやら入れ違いになっていたようだ。
高西はあいかわらずのファッションセンスでサイズの合って無いぶかぶかのシャツの裾がだらしなく掌の半分を覆っている。
寝ていないのか少しやつれているように見えたがその病的さが不思議な魅力を引き出しているようにも見える。
テラスへ連れて行くと「お昼がまだなの。」とあろうことか食堂で素うどんを買って席に着いた。
寂しげな目でずるずると白い麺を啜っている。
「よく、食べられますね…」
「なんで?うどん嫌いなの?」
うどんを啜りながら不思議そうに尋ねられた。
うどんは好きだが正直あの光景を見た後だとしばらく麺類を食べたいという気は起きない。
やはり高西はどこか感覚がズレていると言うか…
「貝寄先生、はやく回復すると良いですね。」
「そうね…今はまだ安静にしていないといけないけど…ううん、やっぱり死んでしまうかもしれないわね。」
「え?」
さらりと答えられた。一応一命は取り留めているのだし外傷ならばそのうち回復するはずではないのか。
「先生ね、娘と同じ病気を発症しているの。あれは今の医学では治すのは不可能なのよ。寄生虫を持ってしても…」
そうしてまた一口うどんを啜る。
娘と同じ病気…?貝寄先生は不治の病に冒されていたのか…
「先生、嬉しそうだったわ。きっと自分が筒になれば生きる事も死ぬ事も無いと思っているのね。不思議ねえ、あれ、あんなに嫌悪してた死に際とそっくりなのに。」
凩の頭にふとこの間の白骨の言葉がよぎった。
心臓町は生と死が曖昧な気がする、と。
「でも、先生のおかげで私は大切な物に気付けた気がするわ。生きるとは魂の問題であって、この体は最初からただの筒なんだって。」
「それは…どういう…」
「ふふ、でも私はまだ納得していない。まだすべて見えたわけじゃないから。」
高西が何を言っているのかよくわからなかった。
その顔は普段見せる愛らしく美しい聖母のような笑みだったが そこに安らぎを感じるものなどなにもなくて、酷く寒々しい印象を受けた。
「凩クン、命が生まれて死ぬまでの間を繋げている物は、この体よね。」
「ええ」
「先生が筒を怖がったのはね、多分、あの人もう長くなかったからきっと死んだまま生かされるのが怖かったんだと思う。だけど人も筒だと気付いたから、ああやって嬉しそうに笑っているんだわ。」
「…筒ですか」
「そ。生と死を屋内に咲く花に例えたとき、どこかからホースで水を引いてきて与えないと花は枯れて死んでしまうわ。花が死んでもホースには関係ないけどホースが死ねば花も死ぬ。花を生かすも殺すもホース次第ってこと。」
高西の言う“筒”という人生観、頭は少し混乱するが言われてみればそのイメージでも当てはまる気がする。
つまりこの体は命を生かす為に水を与え続けている“筒”だということで、そうなればその逆、水を与えない場合もあるわけで、
「人も誰かを生かしたり、殺したりしますもんね…」
凩の言葉に高西は満足しているようだ。落ち込んでいると思っていた高西は何故か少し嬉しそうだった。
「凩クン、」
高西は中途半端に長い裾がうどんを食べるのに邪魔なのか少し引きあげた。

「私はね、学者として知りたいの。生きるとは、筒とは何なのかを」


不意に見たその動作 本来は手首の真白い皮膚が覗くはずのそこには、赤黒い血管がドクンドクンと脈打っていた。

ワタゲ:筒篇
ー終ー