1

心臓町は不気味な街だ。
曇りの空がよく似合う。
心臓町の南東から南にかけては海に面している。
海から発生した雲が本土へ流される途中、 心臓町と肉桂町の境目あたりにそびえる肘山、膝山に行く手を遮られるという地形の 関係で、他の地域に比べて晴れの日の割合が驚く程少ない。
かといってなぜか降水量が多いわけでもない。
晴れの日数と同じくらい曇りの日が多いのだ。

日曜の朝くらいは爽やかに目覚めたいものだと思ったが、わりと晴れ間の多い秋の季節を過ぎてしまった今では 生憎今日も灰色で塗りつぶされた空が広がっていた。
「お兄ちゃん、おはよう」
凩が部屋のカーテンを開けると後ろで声がした。
「風花、おはよう。今日は早いな。」
「いつも寝てるから。へへっ。」
花柄のネグリジェに分厚いガーディガンを羽織った風花が可愛らしい笑顔を見せた。
凩は8つ年下の妹、風花と2人で暮らしている。
母は他界、父は行方不明で、今はもう凩にとって風花は唯一残された家族なのだ。
そんな境遇だからだろう、凩は超が付く程風花のことを溺愛している。
兄馬鹿と言われても仕方ないだろうが、凩はテレビに 映っているアイドルよりも風花の方が何倍も美少女だと思っている。
風花は栗色の髪で睫毛も長く肌も透き通るように白い。
性格もおとなしく素直で、料理も上手い。
凩にとって最高に自慢の妹なのだ。
だが風花は体がとても弱く、ほとんど家から出ることができなかった。
少し歩くだけでも息切れをおこし、走ると心臓が持たないほどだ。
そのことを気にしているのかたまに風花は表情を曇らせる。
料理が上手くなったのも、せめて家の中で役に立てることを模索しての結果だ。
「コーヒー飲むよね?お湯湧かしてるの。」
「そか、ありがとな。」
香ばしい匂いと共に食卓にコーヒーとホットミルク、そしてトーストとマーマレードが並んだ。
「お兄ちゃん、今日のご予定は?」
「んー、今日は休みなんだけど、ちょっと行きたい所がある。ああ、何か買って来ようか?」
「ん、あのね、レース編みしてみたいなって。すっごく可愛いんだもん。」
「わかったわかった。じゃあ、材料と本、買って来てあげるよ。」
「本当?ありがとお兄ちゃん!」
風花は嬉しそうに笑った。
家の中から出られない、遊びたい年頃の少女には酷だろう。
だから凩は風花の望むことは出来る限り叶えてあげるつもりだ。
それにレース編みだなんてとても可憐じゃないか!
風花にぴったりの趣味だな。と凩の頬は少し緩んでいた。

2

今日は仕事が休みなので朝の病屋へ足を運ぶことにした。
いつもだいたい仕事終わりに寄る程度なので指切り通りは夕方の姿が一番なじみがある。
血管住宅街の周りを走る国道からバスが出ている。
それに乗って凩は指切り通りの南口までやってきた。
朝の指切り通りは軽く靄がかかっていて、それが一段と怪しさを醸し出している。
今は朝の8時44分だ。
異界の者達は今はみな眠りについているのだろうかと思う程人の気配が無い。
毒田も起きているのだろうか?
欠けたコンクリート塀から突き出した鉄の棒に百舌鳥の早贄のように目玉がいくつも突き刺さっている。
凩はここを通りかかる度、これは誰が何のために行っているのだろうと不思議に思っている。
近代アートのオブジェか、それともただの小鳥除けか?
この通りを歩いていると曇りの空とコンクリートの灰色が混じり合った道に自分の存在すらも曖昧に溶けてしまうようだ。
それに時間帯によってこんなにも印象を変える。何度も通っている道なのにまるで別世界のようで、 街も道もころころと表情を変える人間と同じように思えた。
病屋の看板が10メートル程先に見える。珍しく店の前に人が立っていた。
黒い帽子に黒いマント、全身を黒で固めている。ゆらめく影のような人間だ。
(客だろうか?)
その人が店に入るのか入らないのか気にしつつ凩が近づいて行く。
「君、この店に入るのですか?」
凩が病屋のドアを開けようとするとその人は声を発した。
黒い大きな帽子で顔を隠し、長い白髪を後ろで縛っていて、体つきもすらりとしていたので、 遠目に見ただけでは男なのか女なのか判別できなかったのだが声から判断するにどうやら男の人のようだ。
「えっと、入りますけど、何か?」
凩が不審そうに尋ねる。
毒田は25時間営業だと言っていたが、実はまだ開店していないのかもしれない。
確認しようと凩がドアノブに手をかけた。少し軋んだ音がする。
「気をつけた方が良い。中に良くないモノがいる。」
「え?」
思わぬ警告に振り向くと、帽子の男はじっと凩を見据えていた。
その顔はとても均整のとれた美しい顔だ。だけども何故か気持ちの悪い化け物を見るような そんなふうに体が反応してしまう。
ぞわぞわと背中のあたりに鳥肌が立つ感覚があった。
不気味の谷を越えた人形―、そんな言葉が一番しっくりくる。
「私は白骨と云います。葬儀屋をしていますので何か困ったことがあったら連絡を下さい。」
白骨と名乗る男は黒いコートの内ポケットから小さな紙切れを一枚出すと、それを凩に差し出した。
「…はぁ、」
見るとそれは名刺のようだ。
万年筆で書かれた滲んだ手書きの文字で、 白骨 という名前と、電話番号が記されていた。
名刺を渡すと白骨はくるりと踵を返し、朝靄の中へと消えて行った。

一体何者だったんだ。葬儀屋と言っていたが…

それに良くないモノとは…毒田のことだろうか…?

少々不安にかられながらも凩は病屋へと入って行った。
中は相変わらず埃っぽい。
毒田の姿が店の奥のいつものカウンターテーブルの向こうに見えた。
「毒田さ…」
凩が声をかけようとした時、何かに気付いた。
ガラクタに邪魔されて良く見えないが、店の奥で毒田以外に何かがいる。
凩が警戒しながら一歩一歩近づくとすぐにその正体がわかった。
先客がいたのだ。
なんだ、と凩は安堵の息をついた。
「凩くんじゃない。今日は珍しく朝だね。」
毒田はいつもどおり口を三日月型にぎひひと笑った。
「お客さんですか?」
凩が近づくと、前に毒田がカウンターテーブルの横に設置してくれた腰掛けに一人の男が座っていて、凩の顔を見るとぺこりと挨拶をした。
「この人彼岸西さん。凩くん、この人の話おっかしいんだよ。」
毒田は先客を紹介するとぎっひっひと笑い出した。
「毒田さん、私は笑える話をしたつもりはないのだが…」
困ったように弁解する男はウェーブかかったブロンドに襟元にひらひらの付いた真っ白なシャツを着ていて、どこか西洋の貴族を思わせる風貌だ。
「この人凩くん。僕の友達。精神科医だヨ。」
毒田は笑い声を押さえながら彼岸西という男に凩を紹介した。
「凩さん、あなたは毒田さんよりはまともそうですね。」
彼岸西はいつまでもニヤニヤしている毒田に対して少しいらだっているようだ。
「私は記憶喪失なのです。」
彼岸西は話の相手を凩に乗り換えたようだ。
「3日前から以前の記憶が無いのです。話を聴いていただけますか?」
凩が返事をする前に彼岸西は勝手にしゃべりだした。
「私がここに来たのはある病を買おうと思ったのです。話せば長いのですが、3日前、私は海の見える廃工場の前に立っていました。覚えているのは自分の名が彼岸西であるということだけ、そして私が何者なのか思案した結果、数少ないヒントから私が得た答えは万人から愛されてあたりまえの人間だということ。この美しい肉体、そして溢れ出る才能、妬む気持ちすらも掠れてしまう程輝かしい人間だ。それは、この容姿から容易に想像できました。」
「毒田さん、」
凩が思わず口を挟んだ。
「この人、殴っていいですか?」
それを聞いて毒田は堪えていたのを耐えきれずに噴き出した。
「まあ最後まで聞きたまえ。しかしだ、こんなにも愛されるべき人間である私は誰にも全く好かれる気配が無いのだ。」
それはみんな愛想を尽かしているだけだろう。と凩は思った。
「街中の誰も私の姿に見向きもしない!話しかけても無視をする。街ぐるみでの集団いじめか?否、きっと私は愛されない病にかかってしまったのだ。」
毒田は相変わらずぎひひと笑ってる。
「そこでだ、目には目を、歯には歯を、病には病を、だ。私はここならば万人から愛される病を買うことが出来ると知り、わざわざやってきたわけだがこの主人は私が話し出すと大笑いしてなかなか先に進めなかったのだ。」
彼岸西は至極当然のことのように自分を褒め讃える言葉を並べるが、記憶喪失のくせに一体どこからそんな自信が溢れて来るのだと凩は呆れていた。
まあ、この彼岸西という男、さっきの白骨が儚げなアンティークドールだとすればこの男はまるでデッサンに使う石膏の彫像のような顔をしている。
彫りの深い端正な顔立ちで、こんな風にナルシスト風を吹かせているのがよく似合う。
「彼岸西さん、万人から愛される病ってちょっと無理あるよね。」
毒田がぎひぎひと笑いながら説明をはじめる。
「自分が愛されていると錯覚する病だったらあるよ。その逆も。でも本当に好きになってもらうっていうのは君じゃなくて相手を病にかけなきゃいけないよね。それとも、彼岸西さんを好きになる病を街中の、いや、世界中の人間達にかけるつもり?」
「ふむ、それもアリだな。」
荒唐無稽な話を彼岸西は真剣に捉えている。
「そんなことしたら国家予算2つ分貰うけど?」
毒田はぎひひと笑った。
「いや、それよりも記憶を戻さなくていいんですか?記憶が戻れば、なにか手がかりがつかめるかもしれないじゃないですか。」
凩はつい口を挟んでしまった。病がどうこういうよりも普通ならまず記憶を取り戻したいとは思わなかったのだろうか。
「む、それもそうだな。記憶が戻れば誰の策略でこんなことになったのかもわかるやもしれない。」
思わなかったのか…。凩は脱力した。
「しかし、記憶を思い出す術などまるで思いつかないんだ。凩先生、精神科医でしたよね。なんとかなりませんか?」
いつの間にか呼び方が先生になっている。
なんとか、というのは逆行催眠のことを言っているのだろうか、しかしそれよりももっと手軽な方法がある。
「ちょっと失礼。」
凩は白衣コートの内ポケットから携帯電話を取り出して電話をかけた。
「……あ、もしもし歌無雄くん?ごめんね朝っぱらから…」
電話の相手は新米刑事の歌無雄だった。
『凩先生、いや、全然構いませんよ。何かありました?』
「ちょっと知りたいことがあるんだけど、彼岸西という男、捜索願が出てたりしないかな?」
『えーっと、ちょっと待って下さいね。部署が違うんですけどすぐわかります。えーっと、っていうか彼岸西?』
電話口の向こうで歌無雄がパソコンをいじっている音が聞こえたのだが彼岸西という名前に若干反応を示した。
『彼岸西って風歓堂の?…あっ、やっぱり。風歓堂財閥のご子息の彼岸西さん、3週間程前に捜索願が出されていますね。』
「風歓堂…?」
『風歓堂は笛を専門に制作、販売をしている会社ですよ。彼岸西さんはそこの一人息子でオーボエの奏者です。心臓町でのコンクールに優勝したこともあります。ちょっとした有名人ですけど知りませんか?』
「…ごめん。」
そういえば歌無雄の家は音楽が好きらしく、楽器が家にたくさんあると前に自慢していたっけ。
だからそういう情報には詳しいのだろう。
「年齢とか、住所とか、できれば顔写真とか無いかな?顔も知りたいんだけど…」
『じゃあ今から先生の携帯にメール送りますね。』
歌無雄がそういうと今話している途中の携帯電話にメールが届いた。
「忙しいのにありがとう。歌無雄くん。」
『警察は市民の味方ですから。何でも言ってくださいね。』
歌無雄との通話を終え、凩はメールを開いた。
添付されている顔写真、紛れも無く目の前にいるこの男だ。
風歓堂財閥とか言っていたが、彼岸西はその名前を聞いてもイマイチぴんと来ていないようだ。
そういえば隣町の味蕾町へ続く道の途中、馬鹿でかい屋敷がある。そこがたしか風なんとかという財閥の屋敷だと 聞いたことがある気がする。
メールに書かれていた住所もだいたいその辺りだ。
「彼岸西さん、あなたの家がわかったのですが、行きますか?」
「…家か、そこに行けば記憶が蘇るかもしれないな。」
記憶が無いのなら誰かがその家まで連れて行ってあげねばいけないだろう。
休日返上でこのナルシスト男の面倒を見なければいけないのか…
凩は少々面倒くさかったがすぐに腹をくくった。
「でもここからちょっと遠いですね。うちから車持ってこなきゃ…」
「あるヨ。車」
毒田は変な人形の付いた車のキーを差し出した。
「え、ど、毒田さん車乗るんですか?」
毒田が車の運転をする姿など想像もできない。
「拾ったやつ直した。大丈夫だよ。ぎひひ」
凩はやっぱり家から車、持って来ようかなと考えた。

3

毒田の車は病屋の裏にあるから勝手に乗っていいと言われた。
とりあえず凩と彼岸西が病屋の裏にまわると、確かに積み上げられたガラクタといっしょに 何十年も動いていないようなとてもレトロな車が置いてあった。窓の開閉も未だに手回し式のようだ。
「動くんだろうか、これ…」
車のドアにちゃんと鍵は刺さった。
中に乗り込むと意外と快適だ。ガソリンも十分に入っている。
毒田は大丈夫と言っていたが本当に信用していいのだろうか。
しかし、わざわざ家まで戻るのも億劫だ。
風歓堂の屋敷までは車だとそんなに長くはかからないので、一か八かの賭けだと思い、凩がエンジンを入れた。

味蕾町へ続く道すがら、彼岸西は流れゆく景色をぼーっと眺めていた。
何も話さなかったが、少し開けていた窓から潮風の匂いがすると、一言「海、」と呟いた。
目的の場所には20分ほどで到着した。
門から屋敷までだいぶ距離のあるとても大きな屋敷だ。
【風歓堂】と達筆な文字で書かれた立派な表札が掲げられている。
入り口のベルを鳴らすと備え付けのモニターに使用人と思われる女性の顔が映った。
『どちらさまでしょうか?本日のアポイントメントを取っていらっしゃらないようですが。』
「私は凩と言います。実はここのご子息様らしき彼岸西という男性を連れて来たのですが、記憶を失っているようなのです。」
使用人の女性は訝しげな目で凩を見た。
「この人なんですが…」
と凩がモニターの前に彼岸西を立たせる。
「…少々お待ち下さい。」
そう言って画面は途切れ、モニターの下のしばらくお待ち下さいという文字が点灯した。
それにしても、行方知れずだった息子が帰って来たというのにこの落ち着きようはなんなのだろう。
屋敷から迎えが来るのかな?と思い、玄関口を凝視していたのだが、再びモニターが付いた。
映ったのは先ほどの女性ではなく、厳ついヒゲを蓄え、しかしどこか気品に溢れた60過ぎくらいの男だった。
「どなたかは存じませんがお引き取り願います。息子は1ヶ月前にこの家から出て行ったのです。
記憶喪失だなんてそんなに簡単になるものですか!嘘を付くにしてももっとマシな理由を考えなさい!」
「いや、嘘では…」
「どこからかぎつけたのかは知らんが、整形してまで息子に成り済ましてこの家に乗り込もうとする。アンタで5人目だ。」 彼岸西の父親と思われる男は凩を一喝するとそのままモニターを切ってしまった。
そういえば彼岸西は財閥の一人息子だったっけ。
行方が知れなくなったとなればその地位を狙って成り代わろうとするものも出て来るはずだ。
なんだか住む世界が違うなあと絵空事のように思えてしまう。 しかし、本当に彼岸西である証拠がなければまともに取り合ってくれないだろう。
どうすれば…
「あ、そういえばオーボエが吹けるんですよね?しかもコンクールで優勝する程の腕前。それを聴かせれば…」
「凩先生。」
とても良いアイディアだと思い彼岸西に提案したが、彼岸西は首を横に振った。その目はすでになにかを諦めているようだ。 「先生、いいんだ。これで。これで良い気がする。」
何が良いのかよく分からないが、彼岸西はこの家に入ることを拒否しているようにも見えた。
このナルシスト男が風歓堂の子息だということはほぼ間違いない。
しかし家には帰れない。これから一体どうするのか…。
「とりあえず病屋に戻りましょうか。」
そう言って2人を乗せた車はもと来た道を戻り始めた。
「あ、すみませんがちょっと寄り道してもいいですか?」
凩は行きの道中に手芸店があるのを目ざとく見つけていたのだ。
しばらく車を走らせその手芸店に着くと、狭い駐車場に車を止めて「すぐ戻りますから。」と言って彼岸西を残したまま手芸店へと入って行った。
店員にレース編みの本と、必要なもの一式を教えてもらい、どれを買おうかと物色する。
糸と言っても結構たくさん種類があるんだなあ。
そんなことを思いながらふと、あることを思い出した。

― そういえば、この近くに海に面した繊維工場があったはず。だいぶ昔に廃工場になっている。
そしてその先にあるのは―
喪失岬―。

凩は急いでレース編み一式を買うと車に戻った。
「彼岸西さん、あなたが最初に覚えているのは確か海の見える廃工場でしたよね?そこに行ってみませんか?」
もしかすると何か手がかりが見つかるかもしれない。
いや、何か見つかる気がする。凩には不思議な確証があった。

4

心臓町の南東から南にかけては海に面している。
曇りが多い所為で青く爽やかなイメージなど微塵も無い鉛のような海だ。
そして繊維工場跡地を通りそのまま南下して行くと喪失岬と言う観光スポットがある。
この岬には不思議な都市伝説があって、岬を訪れた者は必ずひとつ、なにか忘れ物をするというのだ。
それはこの岬で自殺した人間の怨念の仕業だと。
なので岬を訪れる人は岬に入る前に道端の石ころを拾って、それを岬に置いて帰るのが常識らしい。
中にはゴミをそのまま忘れ物として置いて帰る不届き者もいる。そのため岬は各所にゴミが散乱している。
凩は幽霊なんかは信じていないのだが、前に一度喪失岬を訪れた際、特に石を置いて帰ることももせず、家に帰った後、ポケットに入れていたハンカチが無くなっていた記憶がある。
もしも本当に何かを忘れてしまうというのなら、彼岸西はきっと岬に記憶を忘れてきてしまったのだ。
非現実的な話ではあるが、この符合に凩は軽く興奮している。
車を走らせてそのまま海へと向かった。

元々風歓堂の屋敷のある所は海に近い街だったので少し車を走らせるとすぐに鉛色の海が眼前に広がった。
このまま海沿いの道を行けば、岬までそう遠くはないだろう。
「凩先生、実は私にはもうひとつだけ頭に残っていたことがあるのですよ。」
彼岸西は海を眺めながらぽつりと言った。
なんだろう、また自分の自慢話だろうか。
凩は黙って彼岸西の話を聞く。
「私はねぇ、イルカが好きなんだ。」
「え?イルカ?ですか?」
予想に反して突飛な事を言うので少し驚いた。
「幼い頃に絵本で読んだのだ。貧しく、不幸な少年がイルカに乗って幸せの国へ行く…。その時のその挿絵がすごく印象に残っていてね。私もいつかイルカに乗りたいなと、そう思っていた。」
「それじゃイルカの調教師になればいいんじゃないですか?」
凩は彼岸西の幻想に対して現実的過ぎる的外れな返しをしてしまったかな。と少し後悔をしたが、それを聞いて彼岸西は嬉しそうに笑った。
「ふむ、そうだな。なりたいなあ。イルカの調教師に。」
彼岸西がそんなにイルカ好きだとは少し意外だった。

車を10分程走らせると廃工場が100mほど先に見えて来た。
さらにその先に喪失岬が海と空を突き刺すように出っ張っているのが見える。
「彼岸西さんがいたのってあそこですか?」
「…そうだ。」
やはり、自分の推測は正しかったのだ。あとは彼岸西の記憶を呼び戻す手がかりがきっとどこかに…。
そう凩が思案していると、突然彼岸西が車を止めてくれと言った。
廃工場の前で車を止める。
「凩先生、私はやっぱりこれ以上先へは行かない。行きたくない。」
「へ?」
ここまで来て何を言っているのだろうか。
「でも記憶を戻す手がかりが…」
「…怖いんだ。なんだか、この先へ…岬へ行くのが。」
そんなことを言われてはますます気になってしまう。
しかし彼岸西はおもむろにドアを開けると車から降りてもと来た道を戻り始めた。
「ひ…彼岸西さん!どこ行くんです?!」
凩も急いで車を降り、彼岸西を引き止めた。
「私は肉桂町へ行ってみようと思う。毒田さんのマムシ酒、あれの中身、空竜って言ったかな?あれのフォルム、素敵だと思わないかい?」
あれは、確かにイルカっぽいが…。
「肉桂町で毒田さんの言っていた物売りを探してみるよ。私もあの竜が欲しい。」
「彼岸西さん…」
この男は本当に記憶を取り戻したいのか?
金持ちの人間は身勝手だなと凩は少し憤りを感じた。
でも、肉桂町は心臓町の北だ。ここからじゃ歩いて行くのは無謀過ぎる。
「…私は肉桂町なんて連れて行きませんよ。それでも行くんですか?」
凩はどうしても岬で記憶喪失の謎を解きたかったが、それでも良いと彼岸西は歩いて去って行った。
― …そういえば少し行った先に駅があったっけ…
凩は思い出した。岬は一応観光スポットなので付近に喪失岬駅があったはず。
彼岸西もそこから電車に乗って指切り通りまで来たのだろう。
車に乗り込んで、ふう、とため息をついた。せっかく来たのだし、自分一人でも岬へ…
そう思って車を出そうと前を見ると、記憶に新しい黒い影が道の真ん中に立っていた。
潮風にマントがなびいているが大きな帽子は風に攫われる気配はない。
「…白骨さん?」
窓から顔を出して姿を確認する。
どこから現れたのか紛れも無く今朝の葬儀屋だ。
「君、この先へ行くのか?」
また何か良くないモノでもいるというのか。
「行くのだろう?私も同行させて欲しい。良くないモノが多いからね。」
良くないモノ、自殺者の霊が蠢いているとでもいうのか。
「…行くのは構いませんが、何か御用が?」
「…そうだな。仕事だ。」
仕事…葬儀屋の?
なんだか気味が悪かったのだが、この得体の知れない葬儀屋を蔑ろにすると後が怖い気がしたので、凩はしぶしぶ白骨を助手席に乗せることにした。
白骨が隣に来ると不思議なお香の香りがした。

「君の探し物は見つかる。彼は心のどこかでそれを望んでいる。」
彼…というのは彼岸西のことだろうか?
それでは探し物は彼岸西の記憶の手がかりだろうか?
元来それほど距離も無かったので車を走らせるとすぐに岬に着いた。
薄茶色に干涸びた野草がぽつぽつと地面を埋めている。
ゴミ袋もいくつか落ちていた。
しかし、見渡す限りでは特に何も変わった物は無い。
「君、」
白骨が呼びかけた。
「あ、あのぼくは凩と言います。」
「そうか。すまない。凩。」
いきなり呼び捨てでも構わない。別に。
「なんですか?仕事はしないんですか?」
そう白骨に問いかけると、白骨は鉛の海を背に白い手袋を嵌めた右手で右斜め下を指差した。
指の差す先は断崖絶壁だ。
なんだ?と思って凩は落ちないように身を乗り出して崖下を覗いた。
50mほどの高さがあるその崖の底を 鉛の波が激しく打ち寄せては引いている。
凩は波の引いた岩場で見つけた。
見つけてしまった。

5

次の日、勤め先の精神病院に今日は午後から出勤しますと連絡を入れて凩は病屋へ赴いた。
軋んだドアを開け、コロンとベルが鳴る。
彼岸西は今日も来ていた。昨日と同じ、襟元にひらひらの付いた真っ白なシャツを着て。
「凩くん、聞いて聞いて!彼岸西さんシュマルツくんを探しに肉桂町まで行ったらしいんだけどさあ、シュマルツくんは昨日はここに来てたんだよねえ。」
毒田はぎひひと腹を抱えて笑っている。
彼岸西は悔しそうな顔で毒田を睨んだ。
「毒田さん、あなたは全部知ってたんじゃないですか?」
凩は少しきつい口調で毒田を問いただす。
それを聞いて毒田は「まあね。」とあっけらかんと答えた。
「一体何の話だい?私も話に混ぜていただきたいなあ。」
彼岸西が少し不機嫌な口調で言う。
「彼岸西さん、よくよく考えればわかるはずだった。記憶を失ったあなたはこの3日間一体どこで寝起きしてたんですか?今の時期はもうそんな格好じゃ寒いでしょう。それなのに外にいる時もその全く汚れていないシャツ一枚。」
「ブラウスだよ。」と毒田が口を挟んだが凩は無視した。
「私は別に寒くないぞ」と彼岸西は言う。
「実は昨日、喪失岬でひとつの遺体が発見されました。」
「…?自殺者か?それが?」
彼岸西はそのことを聞いてもまだぴんと来ないようだ。
「…まだ、わかりませんか?あなたが誰からも愛されない理由を。」
彼岸西はため息をひとつついて「ああ…」と呟いた。
するとコロンと入り口のベルが鳴った。
入って来たのは白骨だ。
「あー葬儀屋さん。」毒田はのんきに手を振っている。
この2人は顔見知りなのか?
白骨はガラクタに挟まれた狭い通路をするりと通り抜け、彼岸西の前に立った。
「彼岸西さん、付いて来て下さい。そうしないと仕事ができない。」
彼岸西は観念したように白骨の後に付いて行った。
「凩、すまないがまた運転を頼んで良いか?私は車を動かす術を知らない。」
「いいですよ。」と、凩は白骨と彼岸西を乗せてあのレトロな車を発進させた。

6

凩が喪失岬で発見したのはひとつの水死体だった。
うすよごれたブラウス。水面に揺蕩うブロンド。
凩は急いで歌無雄に連絡をして、その遺体は鉛の海から引き上げられることとなった。

その遺体は風歓堂財閥の一人息子、彼岸西だった。
連絡をしたのが凩だからなのか、それとも捜索願の出されていた彼岸西が遺体で発見された為か、何故か歌無雄は首吊坂を連れて引き上げに立ち会った。
「凩先生、こんな錆びれた岬でよく発見しましたねえ。僕なんか高所恐怖症ですから、あんな崖下絶対覗きませんよ。」
童顔の刑事はあははと笑って、不謹慎だと気付いたのか「あっ…」と笑い声を止めた。
「凩さんて超能力者?」
首吊坂にも突っ込まれる。何と説明していいものやら。警察か到着するまでの間に白骨の姿はどこかに消えていた。
引き上げられた水死体は長いこと水に浸かっていた所為か肉がじゅくじゅくにふやけて腐っており、至る所に魚や鳥や蟹についばまれて穴が開いている。あの芸術品の彫刻のような男だったとは思えないほど醜悪に変貌していた。
歌無雄は一目見るなり「うわー」といって遠くへ逃げたが首吊坂はじっとりとした目で遺体を観察している。

5日前に喪失岬でキャンプをしている大学生グループがうるさいのでなんとかしてくれと近隣の住民が警察に連絡をしている。
その時は他になんの騒ぎもなかったので、少なくとも遺体はその後に岩場に打ち上げられたのでしょう。と歌無雄が教えてくれた。
「それにしても…」
歌無雄はシートに包まれている途中の彼岸西の遺体をちらっと見てはまたすぐにそっぽを向いた。
「彼岸西さん、残念です。オーボエ、とても上手だったんですよ。顔もカッコイイから女の子にも人気があって…」
しかし今は見るも無惨な姿である。
生前の彼岸西に羨望の眼差しを送っていた人達も、きっとこんな姿じゃ歌無雄のように逃げ出すだろう。
「事故でしょうか…?それとも……。自殺する理由なんてどこにも無いですよね。」
彼岸西が死んだ理由は凩にもわからない。彼岸西は財産目当てに命を狙われてもおかしくないような人物なのだ。


それが昨日の出来事だ。
凩は結局彼岸西に何があったのか、真相が知りたかった。
喪失岬へ車を走らせている間、彼岸西は取り戻した記憶をぽつりぽつりと語り始めた。

彼岸西は風歓堂財閥の一人息子として、大切に、まさに手塩にかけて育てられた。
風歓堂の跡取りとしてふさわしい人物になるようにフルートの演奏を始めたが、あまり音楽の才能が芽生えなかった彼岸西はフルート奏者ではスターダムにのし上がることは出来ない。と、早くに諦められ、それほど目立つ位置ではなかったオーボエの一流演奏者になるべく技術を叩き込まれた。
心臓町で行われた音楽コンクールは裏金を渡し優勝を与えられた。自分よりももっと上手い奏者はたくさんいたのだ。
だけど誰も、自分のことを卑怯者呼ばわりしなかった。
「お坊ちゃんすごい才能です」「彼岸西さま流石です」と自分では納得いかない出来だった時も、何かを失敗したときすらも、手放しに褒められた。彼岸西はいつからか、愛されることを苦痛に感じていた。
だからある時、噂を聞いて病屋へやってきたらしい。誰からも愛されない病を買う為に…。
毒田から愛されない病を買った彼岸西は不思議なことに他人の心の声が聞こえるようになったという。
といってもそれは病である。ただの幻聴なのかもしれない。
しかし、愛されない病にかかった彼岸西に向けられる言葉は今までと真逆になった。

彼岸西は我が財閥の後継者、それなのに楽器のひとつも出来ないとは私の顔が立たないではないか。あの子にはなんとしても一流の奏者になって箔を付けてもらわねば困る。

お金があって働く必要もない。笛を吹いてるだけで良いんだからお気楽で良いわね。このボンクラ息子は。

あれだけ練習してもこの程度にしかならないなんてある意味すごい才能だよ。

コンクールで優勝?あの腕前で?さすが。お金と権力を持っている方は違いますなあ。


今まで自分に仕えてくれていた使用人達、パーティーなんかで年下の自分に胡麻を擂ってくる子会社の社長、 共にオーボエを練習して来たライバル達、そして…
嫉妬、金欲、嘲笑、嫌悪そんなネガティブな感情しか自分には向けられていなかったのだと気が付いた。
いくら愛されることを苦痛に感じていたのだとしてもそれまで温室で育って来た彼岸西にとっては 人間の醜い本音が手に取るようにわかってしまうのは酷なことだった。
そう、いままで万人から愛されていたと思っていたのは自分だけで、本当に自分を愛してくれていた者など一人もいなかったのだ。

そのことに酷く落胆した彼岸西は家を出た。
父さんや母さんくらいはきっと自分の身を心配してくれる。
財閥の跡取りではなく息子の彼岸西として心配してくれる。
それだけでいいんだ…。 そんな理由で家を出たは良いが、行くあてに困った彼岸西はひとり、海に行くことにしたという。
昔絵本で読んだ、イルカに乗って幸せの国へ行った少年の話、それが頭の中に深く焼き付いていた。
イルカは見れるだろうか…と、海を遠くまで見渡せる喪失岬へ辿り着く。
絵本の挿絵は七色に光る美しい海だったのだが、喪失岬から眺める海は鉛の色をしていた。
愛されないのがこんなにも辛いことだったとは…
潮風に吹かれながら崖下に目をやった。すると水面をバシャリと音を立て、なんとイルカが宙返りをしたではないか!
「イルカ!」
彼岸西は思わず目を奪われた。
イルカはすいすいと泳いで勢いを付け再びジャンプした。
そうだ、あのイルカは私を迎えに来たんだと彼岸西は思った。
あのイルカに乗ればきっと幸せの国へ連れて行ってもらえる。
だから海へ入ったんだ。海へ入って…
そこまで話すと彼岸西の頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼岸西が話し終える頃、車はちょうど岬に着いた。

この海にイルカなどいるはずがない。
彼岸西の見たイルカはきっと病によって引き起こされた幻覚だ。
水死体は見るのも拒否したくなるほど醜悪な姿だ。凩はそれを知っている。
きっとそうなることすらも病の引き起こした結果なのだろう。
真相を知った凩は彼岸西のことをすこし哀れに思った。

3人が車を降りて岬の先端まで行くと 海を眺めて彼岸西は言った。
「私はもう死んでいたんだなぁ。」
その顔はどこか清々しさを感じさせた。
振り向いて凩と白骨の顔を見る。
「凩先生、すまないね私の為に色々してくれて…」

「ありがとう。」

彼岸西は満足気にそう言うと、鉛の海と灰色の空の境界に溶けてしまった。
岬に残されたのは凩と白骨の2人だけ。潮風に白いコートと黒いマントがはたはたとなびいている。
「…彼岸西さん…成仏したんでしょうか。」
「それが私の仕事だ。」
白骨はそう言うと空を指差した。
すると珍しく曇りの空に亀裂が入り、そこから溢れた一筋の陽光が鉛の海に反射して一本の光の道が出来た。
「あっ…」
凩は海に出来た光の道の途中、何かが水面を跳ねたのを見た。
魚では大き過ぎるし、鯨にしては小さ過ぎる。
「彼は行ったよ。ちゃんと。」
そうだ…。そうだな。この光の道はきっと幸せの国に続いているのだ。

7

そういえば何故毒田は初めから彼岸西が記憶を失う前に病屋へ来ていたことを教えてくれなかったのだろう。
白骨を車に乗せて指切り通りに戻る道を走りながら凩は思った。
愛されない病を買いに来た男が、今度は自分は愛されて当然の人間だなんて言って再び やって来れば毒田が腹を抱えて笑うのもわかる。※無断転載厳禁・山井輪廻※
毒田は彼岸西が幽霊だったと気付いていたのだろうか?それとも生身の人間だろうが そうじゃなかろうが毒田にとっては関係ないのか。
凩の考えを見透かしたように白骨が口を開いた。
「凩、あまり毒田と関わらない方がいいぞ。」
「…え?」
「知らない方が幸せだということがこの世界には多いんだ。」
知らないこととは何だ。毒田は知らない方が良いような真実を持った奴なのだろうか?
白骨はそれ以上何もしゃべらなかったし、凩もそれ以上聞くのはなんだか怖かったので 無言のまま指切り通りまで車を走らせた。

病屋に着いたのは午前11時前だった。
一度血管住宅街の自宅に戻って仕事の荷物を取りに行けば 丁度良い時間帯に病院に着くことができるだろう。
毒田に車のキーを返すと、またいつの間にか白骨の姿は無くなっていた。
神出鬼没、謎の葬儀屋。結局白骨が何者なのかもよくわからない。
自分の周りには奇妙な人物ばかりだなと凩は苦笑した。

家に帰ると風花が少し不機嫌に出迎えた。
「お兄ちゃん!鉤針買うの忘れたでしょ。」
話によると、昨日凩が買って来たレース編み一式と編み方の本を風花は嬉しそうに受け取って、 その夜は編み方の本に目を通していたのだが、今日からいざレース編みを始めようと、材料の入った紙袋を開けてみると 肝心の鉤針が入っていなかったというのだ。
手芸店で確かに鉤針も買った気がしたのだが、あの時少し急いで会計を済ませたので 買い忘れたのかそれとも店員が袋に入れ忘れたのか。
「ああ、ごめんごめん、今日ちゃんと買ってくるから。」
怒った顔も可愛いなあと思いつつ風花を宥めた。
「じゃあ病院に行って…」
「あ、お兄ちゃんボタン取れちゃってるね。」
風花は凩の着ていた白衣コートの袖のボタンがひとつ取れて無くなっていることに目ざとく気が付いた。
「替えのボタン、たしかあったはずだから、お兄ちゃん帰ってきたら私が縫ってあげるね!」
さっきまで斜めだった風花の機嫌はすっかり治ったようだ。
「ああ、頼むよ。それじゃあ行ってきます。」※無断転載厳禁・山井輪廻※
凩が玄関を出ると冬の風が凩の頬を撫でた。
(寒いなあ…)
凩は風花を溺愛している。家族として。妹として。
それは風花も受け止めてくれているようだ。
彼岸西は死をちゃんと悼んでもらえたのだろうか。
一人の人間として、この世からいなくなったことを誰かに悲しんでもらえただろうか。

そんなことを考えながら凩は精神病院のある瘡蓋森へと向かった。

ワタゲ:愛されたい男篇
― 終 ―