1

心臓町は不気味な街だ。
不気味な街だが精神異常者による犯罪が多いだけで、その分一般的な殺人や強盗や詐欺や暴行事件なんかはあまり起こらないらしい。
その見方だと比較的治安は良いと言えるだろう。
だがやはり異常者が多いだけに子供達の身の安全を図るのは難しいイメージが先行してしまい 保育所や学校などの子供達の身を預かる場所は心臓町を外して創られるようになっている。
そんな心臓町なのだが一校だけ大脳公園の先に手野平高校という高等学校が存在する。
生徒数はそれほど多くないが極一般的な商業高校で、秋には体育祭の音が真昼でも暗い影に覆われた指切り通りまで聞こえて来る。
今年ももうそんな季節だ。


手野平高校[2−И]
学校周辺に植えられた街路樹が黄色く色づきはじめ葉の何枚かが風にもがれて地面に散れている。
晩秋の時期は遠くまで澄み渡った空も、照りつける太陽も、髪を梳くような乾いた風も、 全てが愁いを帯びているようだ。
しかし、窓の外のそれとは対照的に昼休みということもあってか教室の中は騒がしく賑わっており各々が自由に昼食をとっていた。
窓際の席で2人の女学生がお菓子とサンドイッチを齧りながらきゃあきゃあとたわいもない話をしている。
一人は明日香という少女で心臓町の東隣の味蕾町で暮らしている。
明朗活発で少し強引なところがあるのだが小動物のような愛らしい仕草でクラスでもまずまずの人気者だ。
明日香と机を挟んで対峙しているのは薫と言う少女で綺麗なストレートの髪をポニーテールにして結っており スポーツが得意でしっかり者なので先生やクラスメイトから信頼を置かれやすい位置にいる。
2人はこの高校に入って知り合ったのだが、自分では出来ないことはすぐに人に頼ってしまう明日香を何でも卒無くこなしてしまう薫が面倒を見ていくうちに自然と仲良くなっていったようだ。
端から見た2人の印象は全く違うのだが、どちらもあまり性格に裏表が無いという共通点も仲が良くなった一因だろう。
「薫知ってる?どっかのクラスの子が話してたんだけど〜指切り通り商店街?ってとこに病を売る店があるらしいの。」
「あーそれ聞いたことある。恋の病を売ってもらえるんでしょ?」
「そうそう、さすが薫は話がはやい!」
明日香は先日の掃除時間に廊下で噂話に花を咲かせていた他のクラスの女生徒の話を盗み聞いていたのだ。
内容は、指切り通り商店街の路地裏に病屋という店があるらしい。そこは病を専門に売っていてもちろん恋の病も置いている。
そこで恋の病を手に入れて、上手く使えば好きな人に自分を好きになる恋の病にかけることができる。というのだ。
「でもやめた方がいいよ。あの商店街気味悪いし。それにその店見つけた人っていないんでしょ?」
「行ってみなきゃわかんないよぉ。もしみつけられたら本当に恋の病を売ってるって信憑性高くない?!選ばれた者にしか辿り着けない謎のお店!ねえ放課後…」
「…私は行かないわよ。部活あるし。」
薫は現実主義なのか興味が無いのかあまり噂話というものを真に受けない。
「ちぇ…いいもん一人で見つけてやるもん。」
つれない親友に明日香はぶうーっと頬を膨らませたがそれはすぐにぱっと破裂して花の咲いたような笑顔になる。
「あっ!ねえ、そういえば薫ってさあ、花信と小中同じ学校だったんでしょ?クラスも?一緒?」
「え?んー、たしか小学校4年か5年の時だけ同じクラスで、中学は全部別のクラスだったっけ。」
「わあーねえねえ!なんか面白いことないわけ?お漏らししたとか〜先生のことお母さんって呼んじゃったりとか〜」
「あんたってホント性格悪いわねぇ〜。そうだなーあんまり覚えてないな。花信なんて暗くて全然印象残ってないし。」
2人の少女がちらちらと視線を向ける先には花信という少年が一人でぼそぼそと弁当を食べていた。
花信は暗い性格で誰とも話をしない。最初はからかわれることもあったのだが、いじめのターゲットにしても 反応は無いに等しいので早いうちに見限られて同級生達は彼を相手にしなくなるのだ。
そんな花信をいじめられっこまで昇華させたのは明日香である。
明日香は何かにつけて花信に露骨な嫌がらせをした。
花信は男で、明日香は小柄な少女だ。クラスメイト達は明日香がただ行き過ぎた戯れをしているだけで放っておいても大事に至ることは無いだろう、と悲しんだり怒る素振りも見せない花信よりも可愛いくて明るい明日香の肩を持つようになった。
直接いじめを行うわけではないが花信を助けたり、嫌がらせをする明日香を止めようとは誰もしない。
クラスの中に明日香にいじめられる花信と、花信をいじめる明日香は日常の一風景としてすでに溶け込んでしまっている。
「花信くうん。お弁当おいしいかな?」
明日香がちょっかいを出そうとにゅうっと花信の肩越しに弁当を覗き込んだ。
「おや。今日はハンバーグだねえ。ハンバーグはちょっと甘めの方がいいんじゃないの?」
そう言って明日香は飲みかけの苺牛乳を花信の弁当に勢い良くぶっかけた。一瞬で辺りに苺牛乳の甘ったるい匂いが漂う。
花信は牛乳が飲めないことを明日香は知っていた。
「私の飲みかけよv嬉しい?嬉しいよね?この変態〜」
花信の周りで楽しげに「花信くんは変態♪変態♪」と歌うように罵りながら明日香は窓際の席に戻って行った。
花信は明日香に一瞥もくれること無く、まだ半分も手を付けていなかった弁当の蓋を静かに閉じた。
「…あんたってさあ、花信のこと好きなんだよね?」
「うん!」
呆れ顔で尋ねた薫に明日香は元気良く答えるのだった。

2

凩が仕事を終えて指切り通りに来る頃にはもう6時になるかならないかで、この季節では太陽の頭はすでに山並みに沈んでしまっている。
錆びれた街灯の光は、まだうっすら明るい空の星々に混ざってしまう程弱々しい。
指切り通りは異界の者が多く蠢いている。
今すれ違った人、本当に人間だろうか。少し首が細かった気がする。
あの曲がり角のショーウィンドウ、あの硝子に三ツ目の顔が映っている。
そんな気がする。

凩は見覚えのある所まで来ると顔を上げた。
「確か、このあたり…」
いくら指切り通りが昼間でも暗いといえど、実際夜にさしかかる頃と比べると全く様相は違っている。
弱々しい街灯に照らされてかろうじて病屋という看板の文字が読めた。
昼間はくたびれた外装がきちんと見えたのだが、今の時間だと街灯の光と、すすけたガラス窓から見える店内のガラクタ(照明器具だろうか?)の幾つかが灯っているだけで暗がりに飲込まれそうな店はそれ自体が蠢く闇の塊ようで不気味さを増していた。
凩が病屋を訪れるのは今日で2回目だ。
店主の毒田は凩が気に入ったらしく、「またいつでもおいでよ。25時間営業だから」と言っていた。
凩も病屋のことは気になっている。
病を売る店、しかも心の病。
いままで見て来た患者達がいなかったらうさんくさいただの小道具屋として通り過ぎていただろう。
病屋を取り巻く何もかもが異常過ぎるのだ。
変わらず軋んでいるドア、コロンと鳴るベルの音、やはりこの店は夢うつつの幻ではない。
「凩さん、いらっしゃい。」
店の奥に毒田はいた。相変わらずケロイドと天然痘を模したような奇妙な眼鏡で顔を覆っている。
「すみません。特に買い物するわけでもないんですが…」
「いーのいーのカンゲーカンゲー。いつも暇してるし、凩さん来てくれると僕あうれしいなあ。」
毒田はぎひひと笑った。
「椅子もあるよ。長居してってね。」
毒田の座るカウンターテーブルの横に腰掛けが用意されていた。埃は被っていないので毒田がどこからかわざわざ出して来たのだろう。
「お気遣いすみません。私もこの店に興味があるので、歓迎していただけると助かりますね。」
凩は椅子には座らずにとりあえず愛想笑いをした。
「マムシ酒、飲む?」
毒田はテーブルの隅に置いてあった大きな硝子瓶を引っぱり出した。
瓶の口から銀製の柄杓が突っ込まれている。中の液体が半分程までしか無いので毒田が日頃からよく飲んでいるのだろう。
「いや、お酒は…」
凩は酒があまり得意ではないので断ろうとしたのだが硝子瓶に浸かっているものを見て思わず言葉が詰まってしまった。
「お酒飲めないの?おいしいのに。」
「…これマムシ…?…ではないですよね?」
硝子瓶の仲には17cm程のイルカと蛇を合体させた架空の生物を象った銀細工のような物体が浸かっている。
「バレたカー。これ本物のマムシじゃないんだよね。空竜(からりゅう)っていう竜の幼生。」
「…りゅ…竜?」
「そう。珍しいんだよ〜。シュマルツ君がたまにくれるんだよね。同業者のよしみってヤツ?」
「シュマルツ君…?」
「ああ、シュマルツ君は僕の知り合いで〜流れ者の物売り?っていうのかな。よく肉桂町にいるみたい。」
肉桂町はわかる。心臓町の北隣の町だ。
「竜ってマムシより珍しいんじゃ…」
「あははそうなの?マムシ酒ってどこに売ってるのかわからないからさあ。あ、これは自家製なの」
一度断わろうとしたのを忘れたのか毒田がおちょこに得体の知れないマムシ酒を注いで渡すものだから、凩も差し出されたものを断るのも失礼だと思い、このくらいなら…と勇気を出して一口飲んでみた。
味はミントの葉をすり潰して鉄の風味をくわえたような味で、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
「ぎひひ、おいしい?」
凩が反応に困っているとコロンと入り口のベルが鳴ると同時に 「開いてますか?」
と可愛らしい女の子の声が聞こえた。
凩が振り返った先にいたのは黒いコートの下から華奢な足の伸びた明朗そうな女学生だった。

「なあんだ。結構簡単に見つけられちゃったし。まあ路地裏ってちょっと入り組んでるから私の勘が凄いのかな?」
女学生は幾分か偉そうにしゃべりながらこちらに近づいて来た。
「店員さん?やっぱりここって薬局みたいな店なのね。」
女学生は凩を見てそう言った。凩はいつも白衣のコートを着ているのでそれで勘違いしたのだろう。
「いや、ぼくは…」
「ここって病屋でしょ?恋の病を売ってるって噂なんだけど、ホント?」
女学生はいじらしげに言った。病を売る店など半信半疑なのだろう。
「恋の病、あるけど高いよ?」
女学生の顔は完全に凩の方を向いていたのだが毒田が口を挟んだ。
「高いの?いくら?」
女学生が奇妙な店主に物怖じもせず聞くと
「うーん、100まんえん?」
と口を三日月型に毒田は答えた。
その言葉に若々しく輝いていた女学生の目が座る。
「…なーんだやっぱ嘘なのね。あーあ。せっかくの放課後が無駄になっちゃった…」
女学生は100万円という値段を聞いて踵を返した。
恋の病、それは惚れ薬と同じ事だろう。もし本物だとすれば100万円では安い気がするし、
それに100万円なんてそこいらの女学生がぽんと出せる金額ではない。
適当に追い払う方便だというのが見え見えだ。
それでこの女学生は半分は信じていた気持ちもすべて覆ってしまったんだな。と凩は察した。
「恋の病は好きという感情に限定されるんだよね。そういうのは高くなっちゃうんだ。でも、」
「恋に限定させないなら気持ちを増幅させる薬もあるよ。」
毒田が帰ろうとする女学生に向けて言葉を投げかけるとその足はぴたりと止まった。
「それって…ちょっと好きっていうのがいっぱい好きになるってこと?」
「そう。」
女学生が振り返った。その顔はさっきよりもさらに目を輝かせ満面に花が咲いたような笑顔だった。
毒田が立ち上がって後ろのガラクタ棚から何かを取り出した。
意外と背低いんだな。凩はぼーっと毒田の背中を見てそう思った。
「これ、これを掌に塗って相手と握手するとその相手の自分に対する感情が増幅される。」
毒田はカウンターテーブルの上に10円玉程度の小さな缶の容器を置いた。
「ふ〜ん。ハンドクリーム?」
女学生は缶を手にとって蓋を開ける。
「って中身少なくない?!」
缶の中にはひと雫程度白いクリームがぽつんと入っていた。
「それで1回分だから。ちなみにもう無いよ。それで売り切れ。」
「…まあいいわ。で、これはいくらなの?」
「100えん」
「買った!」
女学生はカウンターテーブルに100円玉を乱暴に置くと嬉しそうに出て行った。
女学生が出て行くなり店内に落ち着きが戻る。
「やっぱりあのくらいの女の子ってみんな色恋沙汰が好きなんですね。」
凩はのんびりと言った。異常とも思えるこの病屋でもやはり現実世界というものが繋がっている。存在している。
毒田と2人きりの店内しか知らなかった所為か、ここは外界と一線を画す世界と言う不安感が心のどこかにあったのだろう。
しかしさっきの女学生によってそんな不安感は取り払われた気がした。
「病って言ってもちゃんと現物があるんですね。いつもあんな感じでお客さんに?」
「そうだね。まあ、ただ病ませることも出来るけど、物が無いとお金払う気起きないでしょ。」
毒田はそう言っているが凩はなんとなく読めた気がする。
毒田はやはりペテン師だ。
さっきの女学生のような子に手を握られれば普通の男子はドキッとするだろう。
そこから恋人同士に発展する可能性も高まる。
そうやって、毒田は客の外見や性格を見抜いてそれに見合ったガラクタを売りつけているのだ。
内容によっては理性を押し切って犯罪を犯してしまうかもしれないし、端から見て異常としか思えない行動をする客だって出て来るはずだ。
毒田はただ、ここにやって来る客の踏み出せない一歩を後押しさせているだけなのだ。
そう思い始めると初めに出会ったときは異界の者ではないかと疑う程に怪しかった毒田もただの人である。
不思議なことにそれで凩の心の中には毒田に対する猜疑心は薄れ安心感すら生まれていた。
「あ、私ももう帰りますね。妹が待ってるので。」
時計を見ると6時半になっていたので凩もお暇することにした。
「そっか。じゃあね〜また来てね〜」
軋むドアを開けた凩に毒田はひらひらと手を振った。

3

心臓町には一戸建てを建てる習慣というものがあまり根付いていない為か、住民の7割は血管住宅街という団地に暮らしている。
この血管住宅街はS、A、B、Cとランク分けされておりS、Aランクは所謂金持ちの住む棟で家賃はバカ高いがセキュリティがしっかりしており、内装も綺麗で広く、Sランクにいたっては庭やプールが個別に付いている。
Bランクは一般層が住む棟で家賃もそれなりに普通である。
Cランクは低所得者向けで家賃が安い代わりにとても狭く質素な棟である。
血管住宅街は住宅街というその名の通り店や企業を排除した街のような空間だ。
なにせ全部で200棟を越える居住棟が網目のように立ち並び、部屋数も莫大な数に及ぶので住宅街を歩いていて偶然知り合いと会うことなんてほとんど無いし、敷地内で迷うことすらあるという。
そんな血管住宅街で他の棟に日射しを遮られ、ほとんど陽の当たらないCー31棟がある。
C−31棟は下位のCランクでも一際住み心地の悪い棟だ。
その006号室に学ランを来た男子学生が帰ってきた。ここが彼の家だ。
「花信、おかえり。」
玄関で花信が靴を揃えていると奥の居間から母親がひょいと顔をのぞかせた。その顔はひどくやつれている。
「今日仕事休みだったの?」
「そうよ。それよりもお弁当びっくりした?実は昨日のお肉少し取っておいたの。ひき肉にして、豆腐を混ぜればちゃんとおいしいハンバーグになるのよ。ちょっとお豆腐の分量多かったかもしれないけど。」
花信の母親はうふふと笑った。
「…ん、おいしかったよ。ありがと。」
花信は少し目をそらして言った。
花信と母親はこの部屋で二人暮らしだ。
花信がまだ小学1年生だった頃に父親の親友が多額の借金を作り、それを父親に背負わせて失踪。
父親も幼い花信と妻と借金をそのまま残してどこかへ消えてしまった。
それからひどい貧乏暮らしが2人を待ち構えていたのだが、花信の母は嫌な顔ひとつ見せずに花信を育てて来た。
花信に周りの子供らが親に買い与えてもらった靴やボールや玩具なんかを羨む気持ちが無いと言えば嘘になるのだが、 父親が親友に裏切られた所為で家庭が崩壊したことを子供ながらに察していたので、誰かと親しくなることを自然と拒否してきたのだ。
それは別に構わない。誰からも好かれたいとは思わない。どこのグループに属していなくても何も苦痛ではない。
誰も自分のことなど相手にしてくれなくて結構だ。自分を取り巻く他人達は親友でも恋人でもなく、ずっと他人のままでいい。
そう思っていた…。
ただ…、ただ一人を除いては。

花信は部屋着に着替え学ランをハンガーにかける、居間へ向かうと母親が夕飯の準備をしていた。
「ごめんね、お肉はまたお金が貯まってからね。今度はすき焼きにしようか。それまではもやしとピーマン炒めで我慢してね。」
絵に描いたような貧乏暮らしだが別に不幸だなんて思っていない。
だけど花信を学校に行かせるために母親は身を粉にして働いてくれている。
そんな母を心配させたり悲しませることは絶対にしたくない。 だから明日香のことはだいぶ頭に来ていたのだが母親に打ち明けたことは一度もなかった。
「洗い物、俺がやっとくから。母さん先に風呂入ってて。」
「あらーありがとうね花信。それじゃあお言葉に甘えちゃおっかな。」
母親が脱衣所に向かったのを確認し花信はこっそりと鞄から弁当箱を取り出して、あまり音を立てないように 静かに苺牛乳の染み込んだ弁当の残りを捨てるのだった。
一口も手を付けることが出来なかった小振りのハンバーグがごろんと残飯入れに落ちて行った。

4

「そういや聞いてなかったけど、花信のどこが良いわけ?」
昼休みに薫は尋ねた。相変わらず教室の中は騒がしい。
「んん〜?聞いちゃうそれ?あのねぇ実はぁー………見た目!」
キャッと言って明日香は顔を手で覆って照れる仕草をした。 「見た目…って…」
薫は相変わらず呆れている。
「なんてゆーか、影がある感じ?それにそんなに顔も悪くないと思うんだよね〜。でもさ、それがバレちゃって他の女の子達からクールで一匹狼な花信くん意外とカッコイイ!みたいになっちゃったら嫌でしょ?だから私が花信を情けないいじめられっこに仕立てあげてるの。」
「あんた歪んでるわ。だいぶ。」
「純愛よ。じゅんあい!それに私秘密兵器手に入れちゃったもんね。」
「え?…まさか昨日の?病を売る店?見つけたの?」
「ふふ〜ん。ひ・み・つv なんせ秘密兵器ですからv」
「白状しろ明日香!この〜!」
薫は腕を伸ばして明日香の頭をぐりぐりと小突いた。
「きゃ〜やめて〜」
2人はきゃはきゃはとじゃれあった。
「うーん、次は何しようかなあ。花信って何が好きなのかなあ。」
「さあ…アイツんち相当貧乏らしいからね。物欲の湧きようがないんじゃない?」
「そっかあ。親は何してる人?家族叩けば相当堪えそう。」
明日香は次のいじめの方法を思案してうんうん唸っている。
「明日香、花信に好かれたいとは思わないの?」
「私は花信の心の中にいられれば良いのよ。」
薫のふとした問いかけに明日香は真顔で即答した。どこか狂気を帯びた目をしている。
薫はその目がなんだか少し怖かったのでどこかに話題をシフトさせようと思った。
「そういえばさあ登山大会もうすぐだね。」
その話題は周りでも騒がれてる。
「そうだね〜私ずーーーーっと楽しみにしてたんだあ登山!花信と組んであげるんだ。うふふ。明日バディの組み合わせ決めるのかな?HRあるし」
「だろうね。」
「薫は誰と組みたいの?」
「え?や、別に誰でも良いよたかが山登り…」
「そんなこと言って〜薫も好きな人いるんでしょ?私応援してあげる!」
「いないってばそんな」
困る薫をからかうように明日香はつっかかってくる。
「私ねせっかくの登山だから登山中にしかできないような嫌がらせずっと考えてたのよ。」
「あ、そーだぁ。たしかうちにお兄ちゃんが買ったけどダサイからって結局履いてない靴あったんだよね〜。」
「花信にプレゼントしちゃおっかな♪私って優しい♪」
「ね、喜ぶよね?絶対」
明日香は一人で盛り上がっている。
(こういうの、なんていうんだっけ?)
薫は頭の抽き出しから何かを探り出している。
「ああ、ツンデレ…ってやつ?」
「ん?何か言った?」
明日香はニコニコと笑っていた。

5

次の日、午後の授業はHRだ。
手野平高校では秋の登山大会が毎年行われている。
心臓町の北、肉桂町との境目辺りに肘山という初心者向けのハイキングコースから本格的な登山コースまである山がある。
秋は紅葉した木々がとても綺麗に山々を彩っている。
もうひとつ、この登山大会で密かに楽しみにされているのは助け合いの精神を養うために男子1名女子1名で2人組のバディを作って登らなければいけないというルールである。好きな子とバディを組めれば最高のイベントなのである。
担任は「静かに〜」と誰とバディを組むかで盛り上がっている生徒達をなだめた。
「はーい、今から明後日の登山大会のバディ決めるけど、どうせ恥ずかしがってなかなか決まらないだろうから席順で先生が勝手に決めまーす。」
担任がそう言うと「え〜」と一気にブーイングの嵐になった。
「はいはい。じゃあ今から決めるのは仮決定ってことで、組みたいヤツがいる人は各々で相談してバディを変更してOK!じゃあ決めるよ。」
担任がぱっぱと席の端から順に男女の組み合わせを決めて行く。
明日香がその順序を目算で計算していたのだが生憎花信とバディにはなれそうになかった。
「じゃ、花信と薫ペアね。」
担任が名指しすると薫の体がぴくっと反応した。
「花信かよ…。」
どうせ明日香が交代しろと言って来るに違いない。
薫は別に花信のことは嫌いではない。暗いやつとしか思っていないが工場のバイトと新聞配達もしているらしいし、悪い印象は持っていなかった。
「はいじゃあ、今からバディ変更するなりして、決定したペアは先生のとこに報告。」
担任が教壇の席に着くと生徒達はまるで逃げ惑う子蜘蛛のようにごちゃごちゃと教室内を移動し始めた。
「かーおる♪」
そら来た。と薫は振り向いた。
目が合うと明日香は薫に向かってバッと手を合わせる。
「分ってるわよ。ペア交代ね。」
「うわあーありがと薫が親友でよかったあ〜」
明日香は大げさに薫に抱きついた。
花信の方を見ると珍しくこっちを見ている。
「花信、まさか私を拒否しようとは思ってないわよねぇ?」
明日香は花信の頭をぽんぽんと叩いてそのまま担任にバディの変更を申し出た。

HRが終るとその日の授業はすべて終了で、あとは好き好きに放課後を過ごすことになる。
花信は月曜日と木曜日と金曜日は工場のバイトで雇ってもらっている。早く帰って工場のバイトに出るために靴箱を開けた。
「……っ!!」
一瞬ぎょっとしてしまった。
靴がずたずたに引き裂かれている。
靴は安い買い物ではない。中学祝いで買って貰った靴をボロボロになっても履き続けていたのだがそれを見かねた工場長が好意で買い与えてくれた靴だ。花信にはとても嬉しいプレゼントだったのにその靴は今や見るも無惨な姿になっていた。花信はなんだか小動物の惨殺死体を見ているようなやるせない気分になった。
こんな靴では母に心配かけてしまうから家に帰れない。代わりの靴も無いし、どうすれば…。
とりあえず履けるだろうかと靴に手をかけようとしたが、ちょうどあの忌々しい声が後ろから聞こえた。
「花信くん?ぼーっとつっ立ってどうしたのかな?」
花信の様子を見て明日香がにこにこと笑っている。
「お前なのか?これ…」
花信は静かに怒っている。相手が男だったら殴りかかっているところだ。
「わー花信がしゃべった!何?なんて言ったの?」
明日香はきゃっきゃと笑った。明日香の言動のひとつひとつ全てが癪に障った。
「あのね、ちょうど私男物の靴持ってるんだあ〜欲しい?ここで土下座すればあげないことも無いよ?」
どこに隠し持っていたのか明日香は花信に少し古ぼけたスニーカーを差し出した。
サイズも丁度合いそうである。
この女はなぜこんなにも自分に屈辱を与えたがるのかが理解出来なかった。自分が何かしたのか?この女と会ったのはこの高校に入ってからだ。突然のいじめがはじまるまで明日香と関わった覚えは全く無い。
自分は空気のような存在でよかったのにコイツの所為で変に目立っている。おとなしく人畜無害で記憶にも残らないような生徒でいたかったのにコイツの所為で女から黙って嫌がらせを受けてる情けない男だと思われている。
それに、今日の…
「どーすんの?靴いるの?いらないの?」
明日香に対する怒りでごちゃごちゃになった自分の頭を静かに整理していたのに癪に触る声でそれも中断された。
死んでも土下座なんかしたくない。だけど、靴を買う金なんか無いし母親にも心配を…
花信はプライドを捨てた。冷たい靴箱の床に手を付いて土下座をした。
「きゃはは!やだ本当に土下座?花信ってホント情けなーい」 誰にも気付かれたくない花信の心情を知ってか知らずか明日香はいつにも増してわざとらしく大声を張り上げた。
花信が頭を上げようとすると頭の上に何かが乗った。というより押さえつけられている感覚だ。
見ると目の前に立つ明日香の足が1本になっていた。
「…っ!」
「はいちーず!」
パシャっと携帯で写真を撮る音も聞こえた。
これにはもう花信も我慢の限界だ。もう後がどうなろうと何も考えられない。このふざけた女を一発ぶん殴ってやる!!
「てめえいいかげんに…」
「きゃああああああ!!!!!!花信サイテー!!そこまでして私のパンツ見たいの??本当にド変態じゃない!!!」
花信が殴りかかろうと顔を上げると明日香が突然叫んだ。
靴箱の周りにいた生徒達も一斉にこちらを向いた。
「明日香?!」
悲鳴を聞きつけて薫と教師もこちらへ向かってくる。
「一体どうしたんだ??花信くん、明日香さんに何したの?」
「うっ…私、花信君の靴がぼろぼろになってるの見て、可哀相だなって…運動部の人に使わない靴無いか探し回って持って来たんです。それなのに話しかけた途端花信君が俺のこと好きなんだろとかいってスカート引っ張ってきて、無理矢理中覗き込もうとするし…」
明日香は教師に嘘八百を並べながらめそめそと泣く振りをした。
よくもまあそんな嘘をぽんぽんと思いつくものだと花信は怒りを通り越してしばらく呆れてしまっていた。
その後教師に厳重注意を受けたのは花信だけで、明日香は結局何のお咎めもなかった。
ありのままを話してもどうせ言い訳がましい情けない男だとしか思われず信じてもらえないだろう。
引き裂かれた靴に関してはさすがにいじめ問題として受け取らざるを得ないようで、とりあえずは明日香の持ってきた靴をしばらく貸してもらえることになった。
花信には煮え切らない思いだけが沸々とこみ上げていた。
工場の仕事に貰った靴を履いて来る度に「まだその靴履いてるの?」と嬉しそうに尋ねて来る工場長の顔が今日はまともに見れなかった。

6

登山大会を明日に控え、体育館では全校集会が開かれた。
コース説明や準備するものなどの説明が行われてあとは明日に備えての準備ということで解散となった。
珍しく午前中で終る授業で学校全体がなんだか浮き足立っているようだ。
「薫、一緒にお菓子買いに行く?おやつは300円まで〜」
「小学生かあんたは!」
明日香と薫は帰る支度をしている。
「じゃあ帰りなんか食べて行こうよ〜どうせ明日カロリーいっぱい消費するんだし〜」
明日香が花信の隣を通り過ぎるだけで花信には嫌悪感が湧き上がった。
明日はあいつと山登りか…花信は深くため息をついた。
花信はいつも学校が終ってからのバイトなので夕方から入るようになってるのだが今日は学校が早く終ったのと、 登山の準備をしなければ行けなかったので早めに仕事に入って早めに帰してもらうことにした。
こうやって自分が汗水垂らして働いている間、アイツはお気楽に甘いものを食べながら薫と楽しくおしゃべりでもしているのだろう。
ぼーっとしているとすぐに明日香に対しての憎しみが湧き上がって来るのだった。

夕方になって血管住宅街の陽の当たらない我が家に帰る。
週末は母親も夕方までのパートで仕事は終わりのはず。
玄関を開けるといつもとかわらず「おかえりー」と母親が顔を覗かせた。
「花信、あんた明日登山大会だってね。もお〜なんで言ってくれないの?いつも通りのお弁当になっちゃうところだったわよ」
「…え、知ってたんだ…。」
「パート仲間の息子さんも花信と同じ高校行ってるんだって!まあ1年生だけどね。それで…」
母親は何やら後ろのビニール袋をごそごそと探る。
「じゃあーん!ハム!これお歳暮とかでしか食べられないやつよ?!賞味期限切れてたから半額以下で買わせて貰えたの。まあ期限切れてても焼けばだいじょうぶよね。花信、サンドイッチとおにぎりどっちがいい?おにぎり?それともおにぎり?」 「…おにぎりがいい。」
「そお?良かった〜ちょうどね、お隣の棟のおばあちゃんに梅干し分けてもらったのよ。とってもすっぱいの!あとシャケも買って来たのよ!フレークだけど」
梅干しもシャケフレークも明日のためにわざわざ用意したのだろう。
母親は楽しそうだった。息子に出来る母親の仕事をまっとう出来るのはやはり嬉しいのだろう。
苦労をかけさせるのはいつも申し訳なく感じていたがこの時ばかりは花信も楽しそうな母親の姿を見れて嬉しかった。
明日香のことはもう深く考えないようにしよう。
どんなに浅はかな行動で自分のプライドを傷つけられたとしても、それで暴力を振るってしまっては理由はどうあれ母はきっと笑顔を曇らせるに違いない。そしていたいけな少女に非道な行いをした男として今後の人生がきっと取り返しのつかないことになるだろう。
あんな女の所為でこれからの人生に支障が出るくらいならいくらでも情けない男だと非難を浴びてやる。

7

肘山へは学校からバスで向かう。
いくら高校生だからといってもまだまだ子供である。
遠足気分でバスの中はいつもの教室以上に賑わっていた。
「はーいみんな良く聞けえ!登山コースにはスタンプラリーが置いてあるからなあー!よく地図を見て絶対迷うなよー!」
備え付けのマイクで担任が叫ぶと生徒達もはーい!と元気良く答えてあはははと勢いだけの笑いに包まれた。

一行が登山の出発地点に到着すると、ぞろぞろと生徒達がバスから出て来た。
深まる秋の山は騒がしい生徒達を感嘆させる。
「うっわー秋だねえ!綺麗〜ねえ薫!写真写真!」
「はいはい」
明日香と薫は山を包み込むように彩られた木々を背景に記念写真を撮り始めた。
「おーい全員集合!バディごとに並べ〜」
教師に促されるまま生徒達が一カ所に集められた。
肘山には登山コースがいくつもあるので学年ごとに違うコースを登ることになっている。
2年生の登るコースが一番険しいという噂だ。
昼飯は頂上で食べるのでそれまでには登りきるように、スタンプラリーに無線を設置しているので何かあったら連絡をと教師が諸注意事項を述べている間、明日香はごそごそと自分のリュックに石を詰めていた。
「はーいそれじゃЯ組から出発ね」
前のクラスの生徒達が1組づつどんどん山に入って行った。
明日香と花信はИ組の一番最後だ。
「花信〜ちゃんとリードしなさいよね。」
明日香が何か言って来たが花信は無視した。
順番が回って来て明日香と花信も登山道に入った。
まだクラスメイト達が何人か前を歩いている。
「花信、どこのスタンプから行こうか。皆と逆行っちゃおうよ!こっち!」
明日香はずんずん山道を進んで行く。
「そっちは…」
そっちの道はコースから外れている。見るからにあまり人の通った形跡のない道だ。
正直明日香なんか遭難してしまえと思ったがこんな一般人も多く来る登山道で迷った所で救出は容易いだろう。
それに助けられた後に非難を受けるのは結局自分だ。
しかたなく明日香の後に付いて行った。
5分程歩いただけですでに他の生徒の姿はどこにも見当たらなくなった。
「おい大丈夫なのか?ここコースじゃないぞ。」
「大丈夫よ。実は私ここ何度も来てるんだ〜こっちはこのスタンプの場所に通じてるから。」
明日香は渡された地図のプリントから見切れている部分をそれとなく指でなぞり適当なスタンプ設置場所を差した。
「…そうなのか…」
花信はつい先日明日香の息を吐くように繰り出される嘘八百を目の当たりにしたにも関わらずその説明に何の疑いも持たなかった。
「それよりも疲れたア〜荷物持ってよー男ならさあ。その靴だって本当は私の家から持って来たものなんだよ?」
ここに来て急に明日香が駄々をこね始めた。
やはりここでは男として荷物を持ってあげるのが正解なのだろう。
それにこの靴が明日香のものなのだとしたら借りを作っていることになる。結局明日香が前の靴をぼろぼろにした証拠なんてどこにも無いのだ。
「ね?おねがい花信くん」
明日香は自分のリュックをどすんと地面に置いた。
「…ったく…」
花信は仕方なく明日香のリュックを持った。異様に重たい。一体こんな重さになるまで何が必要なんだろう。
今日の登山の荷物なんて弁当と水筒と連絡事項のプリントくらいだろう。
右肩にひとつ、左肩にひとつ、それぞれリュックを背負ったが重さがまるで違う。
荷物なんてあって無いもの程度にしか思ってなかったが2人分のリュックを背負って登り始めると、左右のバランスの悪さもあってか、とたんに汗が噴き出して来た。
そんな花信を気遣うそぶりも見せずに明日香はどんどん先へ行ってしまう。
荷物というハンデがあるにしても、へらへらと遊んでいる女に働いている自分が体力で負けてしまうのも癪に触る。
花信は負けじと明日香の後を追いかけた。

8

プリントには頂上までの目安としてだいたい2時間半と書かれている。
登り始めてだいたい1時間が経過している。花信にはもう自分が今どこにいるのか地図を眺めても見当がつかなかった。
スタンプラリーに着く気配も一向にない。
「ふう、ちょっと休憩する?」
明日香は深呼吸して手頃な岩に腰をかけた。
同じく石を背負って登らされた花信もだいぶ体力を消耗している。
荷物を置いて座り込んだ。
「花信って好きな人いるの?」
「…」
「いるでしょ?言ってみなよ。」
「…言うわけねーだろ馬鹿」
「おお?それってまさか照れ隠し?いやーん!」
何を言っているんだろうこの女は…さんざん嫌がらせをしてきた相手から好かれているとでも思っているのだろうか?
「安心しろよ。お前なんか嫌いだ。」
花信がそういうと明日香はニコっと不敵に笑った。
「ああそお。でも荷物は持ってよね。ほら行くよ!」
明日香はバッと立ち上がるとまた先へ進み始めた。
「ったく待てよ馬鹿女…」
もう少し休んでいたかったがこんな所で明日香を見失うと洒落にならないのは自分の方なのでしぶしぶ追いかけることにした。
それから10分程登り続けるとだいぶ視界が開けた場所に出て来た。
左側は絶壁に囲まれおり、右側は崖になっていて高校生用の登山コースにしては少し危険な道のような気がしたが崖下から広がる紅葉の海に花信はしばし見とれていた。
山並みの向こうにかすかに肉桂町の街並が見える。
あれは小学校かな?時計台は見えるし闇夜が丘があの辺で…と花信が肉桂町を目を凝らして見ていると
「花信〜おーい!早く来てー」
と、進んだ先から明日香の呼ぶ声が聞こえる。
今度は何だととりあえず歩みを進めてみると道は行き止まりになっていた。
いや、正確には進むべき道は途切れて深い谷になっていた。そして向こう側を繋ぐ為に今にも崩れ落ちそうなボロボロの吊り橋が頼りなく繋がっているのだ。
よく見ると古ぼけた侵入禁止の看板もある。
「おい、引き返すぞ。お前ほんとは道に迷ってたんだろ?!」
明日香の無責任さに苛立を隠せなかった。
「渡ろうよ。大丈夫よ2人くらい。それにこの先もうすぐ頂上だよ?」
この女は正気だろうか。
まあ、安全管理の面で間違いが起きないように多少大げさに規制することもあるだろう。
このボロボロの吊り橋も人が2人乗るくらいなら耐えられそうな感じもする。
しかし…
「あれ?花信やっぱこわいの?吊り橋って言っても向こうまで5メートルくらいじゃん。大丈夫だって。なんなら手繋いであげるよ。」
明日香が手を差し出したが無視した。
「じゃあ私行くからね。」
そう言って明日香はボロボロの吊り橋の上に身を預けた。
吊り橋は見た目よりもまだだいぶ強度が残ってるようだ。ぴょんぴょんと明日香が渡りきるまで崩れる気配など微塵も見せなかった。
「花信〜意外と大丈夫だって。弱虫〜」
橋の向こう側で明日香が小馬鹿にするように舌をべーっと出した。
「弱虫じゃない。」
花信もなんだか馬鹿らしくなって吊り橋へ足を踏み出した。
予想に反してまだまだ丈夫そうだ。
橋も後半、もう少しで向こう側に着く。少し安心して一歩踏み出したその途端花信は足を取られてバランスを崩した。
「!!」
どうやら板が腐っていたようだ。それにこの重たい荷物。
足がすっぽりと嵌って自力では立ち上がれない。
「花信かっこわる!」
明日香はキャハハと笑っていた。こんな時にこの女は…
「ほら荷物こっち。落ちたら洒落になんない。」
明日香は花信の肩にひとつずつかけていたリュックを奪うと向こう側へと運んだ。
「中身ちぇっく!」
身動きの取れない花信を尻目に明日香はリュックを探り始めた。
「花信くんは今日も質素なお弁当〜♪」
明日香は小馬鹿にしながら勝手に花信の弁当箱を開けて、中のハムを一口つまんだ。
「んーあんまりおいしくないからぁ、森の動物さんたちにプレゼント♪」
明日香は弁当を持った手を谷底へ差し出すとそのままその手をひっくり返した。
母が楽しそうに作っていた弁当の中身が音も立てずに谷底に吸い込まれて行く。
「おま…」
「えへ。安心してよ花信。ハイ。」
明日香はようやく花信に手を差し伸べた。
身動きが取れないこの状態じゃどうしようもないので素直に明日香の手を取った。

「花信、大丈夫?」
明日香に引っ張られて花信の体はようやく吊り橋から解放された。
明日香は昔テレビで観たことがある。
恋の吊り橋効果というもので恐怖によるドキドキを恋のドキドキと勘違いさせることで恋に落ちやすくなると。
明日香はこれを狙って登山大会の2ヶ月も前からわざわざ肘山の地形、コース、吊り橋のある場所を全てを調べていたのだ。
そして元々この計画にはなかったのだが思わぬ秘密兵器、病屋で手に入れたあのハンドクリームである。
おんぼろの吊り橋で命からがら助けてくれた私に花信はきっと…きっと…
「明日香、」
不意に花信が明日香の名を呼んだ。まだお互い手を握りしめたまま、そのシチュエーションに明日香は陶酔していた。

「死ね!!!」

花信は力を込めて明日香の腕をぐるりとひっぱり、眼下に紅葉の海が広がる崖側で手を振り解くとハンドクリームの塗られた明日香の手はするりと花信の手を抜けた。
その勢いでバランスを失った明日香はダンスを踊るように一歩二歩よろけた後、足を踏み外し崖の外へ…
死に落ちる直前、花信が最後に見た明日香の顔は恐怖でも絶望でもなく花が咲いたような嬉しそうな笑顔だった。
赤と黄色の絨毯が明日香の体を受け止めてくれるだろう。
そんなことを思わせる。そんな優しい笑顔だ。
パキ、パキと何度が枝の折れる音がして遠く美しい地獄の底から明日香の体が叩き付けられる鈍い音が微かに聞こえた。

9

「あー凩さん、見て見て!テレビ拾ったよ!今修理し終わったんだ。いっしょに観ようヨ」
その日も仕事を終えて病屋を訪れた凩を若干ハイテンションな毒田が出迎えた。
テーブルはおろか床にまでボルトやネジやドライバーが散乱している。凩は踏んで転ばないように気をつけながら奥へと入って行った。
なにやら丁度良いタイミングで来てしまったようだ。
カウンターテーブルの向こうに古びたテレビが置かれている。
もう誰も使ってないような何十年も昔の型だ。
毒田が勢い良くスイッチを入れると荒い画面に夕方のニュースが映し出された。
『…明日香さん(17)の遺体が今日午後3時頃捜索隊により発見されました。』
「あっ…この子…」
ちょうどニュースに映し出された女の子の顔写真、それは紛れも無くこの間病屋を訪れたあの女学生だ。
『明日香さんは登山コースから逸れ、遭難した所、誤って崖から転落したものと思われ、明日香さんと共に行動していた男子生徒から自事故当時の状況を詳しく聞き、事故の原因を探る他、学校側の管理体制の甘さを…』
「あの子、死んでしまったなんて…」
無感情に伝えられるニュースを見ながら凩はなんとなく虚しい気分になった。
ついこの間、わずかとはいえ関わった事のある人間が、今こうしてテレビの向こうで死んだことを告げられる。
じっと画面を見ていた凩に
「あの薬、使っちゃったんだねえぎひひ。」
と毒田はどこか嬉しそうに言った。
「分るんですか?そんなこと」
「自分の道具がどんな風に使われたかくらい分るよ。」
「そうなんですか?…じゃあ好きな子って一緒にいた男子生徒でしょうか。なんだか可哀相ですね。」
「彼女、満足してるみたいだよ。多分、その男の子に殺されるのわかっててアレ、使ったんだと思う。」
「…殺され…って…え?」※無断転載厳禁・山井輪廻※
毒田の口をついて出て来る言葉は単なる妄想だと受け取るのが当然なのだが、どうもその口調が 真実味を帯びているのでついつい凩は毒田の言葉を信用してしまう。
「好きな人に殺されたいって…私には意味が…」
「凩さん精神科医でしょ?なのに乙女心わかってないナー。」
「…」
「相手の心に一番深く刻み込まれるのは愛情なんかじゃない。憎悪、なんですよ。」
恋路とはかけ離れた、毒田の予想もしない言葉にぞっと悪寒が走る。
「究極の独占欲っていうのかな?女は怖いねえ。」
毒田は変わらない調子でぎひひと笑っていた。

10

明日香の葬儀が終わった。

今日からは明日香が消え去った以外は全ていつも通りの学校生活がはじまるんだ。
花信が校門をくぐるとそんなことを思わせる朝だ。いつもと何一つ変わらない。
ここまでは…。
学校の人間は明日香が足を滑らせて崖から転落したことで納得している。
花信が突き落としたのでは…と疑う者もいるかもしれない。
なにせ明日香から酷い嫌がらせを受け続けてきたことは周知の事実だ。
きっと復讐したに違いないと思われても当然だ。
嫌なヤツが消えた。自分が殺した。
大嫌いな明日香が死んだというのに花信の気分は晴れなかった。
明日香は嫌いだったが明日香の所為で人生が狂ってしまうようなことはする気はなかったのだ。
殺すだなんてその最たるもの。
明日香を殺した所でその後罪の意識に苦しむのは自分じゃないか。そんなことがわからない程馬鹿じゃない。
でも、あの時は魔が差したんだ…そうとしか言えない。
どうしようもなく嫌悪感が溢れ、明日香を消したくて仕様がなくなったのだ。
あの時はそれ以外のことを考えられなかったのに、今はこの手で人を殺めてしまったという恐怖が花信の心を蝕んでいる。
「ー…大丈夫…俺は悪くないんだ。」
花信はぐっと拳を握りしめて震える腕を誤摩化した。


全校集会で明日香の死を全員で悼んだ後、花信のクラスはいつもよりも明らかに沈んでいた。
昼休みになって、薫はいつも一緒に食事をとっていた親友がいない教室を出た。
誰もいない体育館裏の焼却炉、イチョウの葉が散れている。
それを見るとあの肘山の紅葉を思い出す。
晩秋の愁いが薫の体を包み込んだ。
「……明日香…」
明るくて、素直で、たまに我が儘で、でも一緒にいると楽しくて、ちょっと歪んでるけど純真で、もっと、もっとたくさん一緒に思い出を作りたかった。
薫は明日香と過ごした日々を思い出す度、もう二度と会えないんだと言う事実が胸を締め付け、涙が溢れて止まらなかった。
「薫…さん、」
不意に名前を呼ばれて薫は振り向いた。
明日香の声ではない。男の声だ。
「花信…?」
「薫さん、あの、これ…」
薫の姿を追いかけてここまで付けて来た花信は一通の手紙を差し出した。
「ずっと…好きだったんだ。あなたのこと…」
親友の明日香を失った薫の悲しみを、花信は少しでも埋めてあげたかった。
小学5年の時、同じクラスになって、何事もしっかりと真面目にこなす薫の姿を見て花信は薫のことが好きになっていたのだ。
初恋のその想いはあれから6年経った今でもずっと変わらない。
明日香にちょっかいを出され、一番苦痛だったのは薫に情けない姿を見られることだった。
だけどもう邪魔な明日香はいない。
これからは好きな人を守れる男になりたいと、花信はそう決意したのだ。
「…え?なっ…」
薫は驚いている。無理も無いだろう。
「小学生のときからずっと好きだった。家は貧乏だけど、その分働くし、いや、今はただ一緒にいたいんだ。」
「…」
「やっぱり…ダメ…か?俺は明日香から黙って嫌がらせを受けてるだけの情けない男だったけど…でももう…」
「やめてよ!!」
薫は涙声で叫んだ。
「ダメに決まってんでしょ?!明日香はねぇアンタのことが好きだったんだよ!!」
「え…」
薫の思わぬ告白に花信は一瞬頭が真っ白になった。
「そりゃたまにやり過ぎって思うこともあったけど、でも、明日香はそんなに悪い子だった?明日香が死んだって時に私に告白するほどどうでもいい存在だった?なんで明日香のこと死なせちゃったのよ!!アンタが…ちゃんと…見ててあげれば…」
薫は責めるように花信を捲し立てた。
「明日香は登山のお弁当アンタの分も作ってあげたの。私も手伝ってあげたから本当よ?いつも質素なおかずしか入ってないからって材料もわざわざ買いに行って、嬉しそうに…作ってたの…」
薫は泣き崩れた。
「…知らねえよ…そんなこと…」
花信は怒りか後悔か困惑か、拳をぐっと握りしめた。その手の中で受け取ってもらえなかった恋文がぐしゃりと音を立てて潰れた。

11

凩の勤める精神病院は瘡蓋森という白樺の林の奥に広がる森の中にある。※無断転載厳禁・山井輪廻※
その白樺の林と瘡蓋森の中間あたりに人離墓地という墓地があって、凩は病院へ行き来する度その墓地の前を通るのだ。
その日の仕事を終えていつも通りの帰り道、墓地の前にさしかかった。
するとなにやら奇妙な音が聞こえる。
何かを打ち付ける激しい音だ。
まさか呪いのわら人形を打ち付けている人が?いや、それならもっと釘を打ち付ける金属の音がするだろう。
この音は明らかにそれとは違う。
もしや中で喧嘩か、それとも暴行を受けている人が…?
そう思って凩は墓地の中へと進んで行った。
森の中に少し開けた場所があって、そこにいくつも墓石が並んでいる。
ほとんどの墓石が苔むして、昼間でもとても気味の悪い場所だ。
そんな場所で、夕焼け空に照らされて薄闇がかった墓石のひとつを激しく蹴っている少年がいた。
暗くてよく分からないが、少年が執拗に蹴っている墓は他に比べてだいぶ黒光りしているので新しい墓石だろう。
黒い、学ラン…?高校生?
一体何をしているんだと奇妙に思った凩は困惑して森の陰からその様子を眺めるしか無かった。
墓石は少年の激しい蹴りにびくともしなかったが少年は一向に墓を蹴るのを止めない。
「君、何してるの?罰が当たるよ?」
見かねた凩がついつい止めに入ると、少年は素直に蹴るのを止めた。
「君はなんでそんなこと…」
話は通じそうだと話しかけたはいいが、その少年の目は酷く憎しみに満ちた目をしていた。
「俺は悪くないんだ…どうしろっていうんだよ…クソ…」
少年はぶつぶつ言いながら凩の横を通り抜けて墓地を後にした。
少年が蹴っていた墓石に刻み込まれた「明日香」という名前が目に入った。
その名前を見た時、凩は不意にあの時毒田の言っていたことが少し理解出来た気がした。


それから凩が病院から帰る途中、あの墓地の前を通ると毎日毎日あの墓を蹴る音が聞こえてくる。
あの少年はそんなにも深くあの墓に眠る者を憎んでいるのだ。
きっとこれからもあの墓に憎しみをぶつけにやって来るだろう。
墓石が倒れ、崩れ、風化して、粉になっても、ずっと。

ずっと。

ワタゲ:恋の病篇
― 終 ―