1

心臓町は不気味な街だ。
異形の者が暗闇と人ごみに紛れて生きているような街だ。
統計によると、心臓町の精神病患者数と猟奇的な事件の数は他の地域と比べて約4倍だという。
そんな心臓町では今、ある奇怪な事件が頻発していた。


築136年という風情はあれど流石にオンボロとしか言いようの無いビルはつぎはぎのように補強と増築を繰り返している。
この不安定で崩れてしまいそうな建物は心臓町の治安を守る警察署である。
ここの4階には精神異常者が犯すような奇妙な殺人事件を扱う不可解事件捜査一課、通称“不可解課”という部署がある。
もちろん猟奇課もあるのだが、いかんせん心臓町はその類いの事件が多いので、猟奇事件全般を猟奇課で担当して、その中でも特に常人には理解出来ないような方法で行われた事件や犯行の動機が推測出来ないような事件の捜査を不可解課に割り当てられる。
不可解課では呪術や超常現象など、非科学的でインチキくさい分野もまじめに視野に入れて捜査しなければならないので他の部署からは若干馬鹿にされているフシがある。

そんな不可解課に今年配属された新米刑事の歌無雄という男がいる。
彼はもう24歳になるのだが、中学校に生徒として潜入してもバレないだろうと思う程の童顔で、 自分が病んでしまいそうな訳の分からない事件ばかりを捜査しなければならず 常にどこか疲れている不可解課の先輩刑事達を尻目に今日もせかせかと元気に働いている。

「これは限りなく完璧な完全犯罪ですね。」
歌無雄は捜査資料を一旦テーブルに置くと湯のみを2つと熱い番茶の入った急須をお盆に乗せて運んで来た。
「完全犯罪…馬鹿野郎。人間が爆発してんのに何の痕跡も見つかっていないんだぞボケ」
来客用のソファに埋もれながら隻眼の刑事が乱暴に言った。
この隻眼の刑事は乙骨と云って、この不可解課では一番古株の刑事である。
「だから完全犯罪なんですよぉ乙骨さん。何もせずに自然に体が爆発するなんて怖いじゃないですか。」
歌無雄は2人分の湯のみをテーブルに置くと熱い番茶を注いだ。
白い湯気がほわほわと立ちのぼる。

ここ最近、心臓町を密かににぎわせている事件がある。
突然人が爆発するというものだ。
爆発と言っても肢体が派手に飛び散るものもあれば、飛び散りはしないが一度体が膨張したかのように皮膚が裂けた状態で死んでいる、というようなケースもある。
ある種の爆弾による人為的な事件なのかそれとも新種の奇病なのか原因がまるで分からなかった。
「この、被害者達、みんなあれですねえ。補導歴がある。所謂不良ですね。」
歌無雄が捜査資料のファイルをぱらぱらと捲っている。
「んなこた皆知ってる。しかも大半が肉桂町の学校行ってるやつらだろ。あそこぁ悪ガキばっかだからなあ。」
肉桂町は心臓町の北隣の街で心臓町よりも治安が悪い。
「交友関係を洗っていますが、なにせつるんでるグループが多いですからねえ。ああいう子らはやたら絆だの仲間だの言いたがるけどその割には簡単に友達をいじめたり疑ったり裏切ったりするでしょ。浅くて広い友達の輪っていうか。」
歌無雄の何気に酷い偏見に乙骨は少々顔をしかめた。
歌無雄はそれなりに良い育ちの人間なので学校や社会のルールを平気で破れる連中にあまり良い印象を持っていないのだろう。
「それでも調べるんだよ阿呆が。なにか共通することが見つかれば、爆発するのを防げるかもしれねえ。」
乙骨は歌無雄の煎れた番茶を啜ると「あちぃ」と言って湯のみを置いた。

2

鬱蒼とした森の中に、どこか異国情緒の漂う古い精神病院が建っている。
今日もまた一人の少女が母親に付き添われ診察に訪れた。
「先生、総合病院で検査していただいたんですが、脳腫瘍も見られないし、寄生虫なんかがいる可能性も低いって…やっぱり原因は精神的なものじゃないかと…」
母親は心配そうに目の前の若い精神科医、凩に報告する。
凩はこの精神病院の医師である。
心臓町は精神病を患っている患者が多く、精神科医の人手が足りないのでまだ経験も浅いのだが凩も患者の診察をまかされているのだ。
凩が担当しているこの少女は恵と云う名で、所謂異食症患者である。
母親の話によると恵は数週間前までは至極普通の食事を摂っていたのだが、ある日突然花しか食べなくなったのだと言う。
目の前に座る少女は虚ろな顔で、酷くやせ細っている。
他の食物は一切摂取せず花以外を口にしようとしないので当然の結果だろう。
しかも花ならば何でも良いのか、初めて症状が現れた時は突然 「お腹が空いたから」と言って通りにあった花屋の商品を食べ出したのだという。
それをきつく叱ると今度は道端の野草を食べ始め、中には毒草なんかもあるわけで、それも構わず食べるものだから何度も病院に搬送されたらしい。
今は点滴と食用花を与えてしのいでいるようだが、このままだと一体いつどんな拍子で命を落とすかわからない。
しかし元の普通の少女に戻そうと色々調べているのだが、恵は「私はお花以外食べることができない。」の一点張りで原因は一向にわからなかった。
「じゃあ恵ちゃん、お花のかわりにさ、人参やキャベツなんかを食べれば良いんじゃないかな?」
そう優しく問いかけても「それは野菜だもの。お花じゃないわ。」と言う。
「うーん、お母さん、こうなってしまった時期になにかありました?娘さんを精神的に不安定にさせるような…」
「いえ…全く心当たりが…」
この母はこんなにも娘を心配している。原因は家庭内でのトラブルではなさそうだ。だとしたら恋愛か交友関係か、
「ねえ、お花食べようと思ったきっかけは何かあるのかな?」
「…私病気なのよ。だからお花しか食べられないの。」
心の病気なのはわかっている。堂々巡りの応答に凩は苛つく気持ちを押し込めて根気強く手がかりを探す。
「なんで、その病気になっちゃったのかな?わかる?」
「病屋で買ったの。」
「やまいや…」
初めて恵の口からその名前が出た時、凩の眉がぴくりと動き、何か得体の知れない恐怖が掠めた。
「病屋でね、病を買ったの。私は、美しくなるために、醜くならない病よ。」
恵はにっこりと笑った。
頬は痩けて顔色も一目で分かる程悪い。どう見てもこの状態は美しいとは言えない。
「腕も足も前より細くなったの。この病気のおかげよ。私の体はお花で出来ているの。妖精みたいでしょ。」
恵は枯れかけの枝のような腕を伸ばして嬉しそうに見つめている。
「ねえ、その病屋ってどこにあるの?」
凩は訪ねた。実を言うとその店の名前を出した患者は恵で3人目なのだ。
マネキンの腕を自分の肩と脇腹に縫い付けた主婦、自らの腕や足の肉を削いで野良犬や野良猫に分け与えた小学生、そしてこの少女。
今までに結構な数の患者を相手にして来たので、ただの2回その名が出ても病を買える店なんて混濁した精神の見せたマヤカシだ、と軽く流して脳に止めていなかったのだが、今回ばかりは流石に無視はできない。
もしかすると今まで診てきた患者の話からは病屋というワードに辿り着けなかっただけで、病屋と関わっていた患者はもっといるのしれない。
3人の患者にはなんの共通点も無いのだ。
“病屋”という店が少なくとも精神病患者達に何か特殊な関わりをしている店である可能性は高い。
「病屋はねぇ、指切り通りにあるよ。刃物屋の横の細い道に入って、そしたらアクセサリー屋さんかな?なんか黒い外装のお店があってその横道に入って、そしたらどう行くんだっけ…?まあ、その近くよ。」
「指切り通り…」
指切り通りは昼間でも影に覆われた薄暗い気味の悪い商店街である。
元々は約束通りという名前だったのだが、何年か前に無差別に通行人が指を切られる連続殺傷事件が起こり、それから指切り通りという名で呼ばれるようになった。
そのため人々は怖がって指切り通りには近寄らなくなり、指切り通りに店を構えていた人達は自然とその場を離れ、新たに出店する人々も指切り通りを避けて店を構えるうちに、いつの間にか出来上がった別の商店街が今では新・約束通りとなって心臓町のメインストリートとなっている。
指切り通りの方は移り住む資金が無かった店や物好きが開いている今にも壊れそうだったり怪しさ満点の店ばかりが軒を連ねる、人気の無い寂れた通りとなった。
― 病屋、か。
凩は午前の診察が終わったら行ってみようかと心の隅に書き留めた。

3

風船おじさんの話を何かで聞いたことがある。
荒島は学校をさぼって大脳公園で肉まんを頬張っていたのだが、母親に連れられた小さな女の子が持っていた赤い風船を手放してしまい、それが秋晴れの澄んだ空をふわふわと流れて行くのを見てそんなことを不意に思い出したのだ。
― 風船で海を横断したんだっけ?それで結局死んだんだっけ?
あまり使わない脳みそからうろ覚えの記憶をごそごそと探っていたのだが、途中でめんどくさくなって「まあ、いいか。」と再び肉まんを食んだ。
「荒島、」
と後ろから呼ぶ声がする。
いつも世話になっている警官の声でも生徒を探しに来た教師の声でもない。
「やっぱりここにいた。」
荒島の目の前にやってきたのは小学校からの親友、夕凪だった。
「夕凪、おめー学校は?」
「お前が言うなよ。あんな低俗な学校の授業、独学で十分だろ。」
「独学とか言うなよ。秀才ヤローが。」
荒島は制服のブレザーを無視して私服のごついフライトジャケットを羽織っている。
脱色した髪を逆立て、いかにも悪そうな風体の少年で、対して夕凪は制服に皺ひとつない神経質そうないでたちの、柔らかな髪の毛先を綺麗に切りそろえている、いかにも品行方正な秀才だとわかる少年だ。
2人は同じ高校に通う同級生だ。
今いる大脳公園の先にも高等学校があるが、2人の通う学校はそこではなく、肉桂町にある素行不良の生徒が集う底辺高校だ。
夕凪は密かに神童ではと噂される程頭の良い少年なのだが、家は気体屋で主にガス燃料や酸素ボンベなどを取り扱っているの店なので、父親曰く「学歴なんかどうでもいい。頭が良いなら危険物取り扱いの教本を一字一句正確に詰め込め。」と、夕凪に気体屋を継がせることを勝手に決めてしまっている。
下手に良い学校に入れて夕凪が様々な事に興味を持ち、他の仕事を選んでしまったら家を継ぐ者がいなくなってしまう。
だから夕凪の父は選択の幅を与えたくなかったのだろう。
大学なんか必要ない。と私立の進学校へは行かせてもらえなかった。
夕凪も、それならば中途半端な授業に縛られる普通学校より、生徒を抑制することを半ば諦めてしまっている底辺高校で自分の学びたいことを自由に学びたい。と唯一仲の良かった荒島と同じ高校へ入ったのだ。
「荒島、新聞見たか?また爆発したよ。」
夕凪は嬉しそうに言った。
「ああ?何が。」
「清とか言ったっけ。隣のクラスのさ、お前結構仲良かったっけ?」
「清ぃ?あいつ死んだの?」
「爆発したんだ。死ぬだろ。」
荒島はテレビも興味が無いし、もちろん新聞なんかも読まないので今巷で騒がれている人体爆発事件のことをよく知らなかった。
「もう知ってる奴が10人くらい死んでるよな。まぁ別にどーでもいい連中なんだけど。」
「15人だ。荒島。」
爆発して死んだ被害者らは少なからず荒島とつるんだことのある連中ばかりだった。
しかし、とうの荒島はあまりつるむのが好きではなかったためか、知り合いの死もまるで蓋を閉じたように悲しみや虚しさが溢れ出すことはなかった。
「荒島、俺がお前の夢叶えてやるよ。俺は人生に自由が利かないけど、別にそれでも良い。お前の夢を叶えるのが俺の道楽だ。」
「どーらく」
「楽しみってことだ。」
夕凪は荒島の隣に座るとふふふと笑った。
「お前変わってるよなあ。頭良いのか良くないのかわかんねー。」
「天才過ぎて理解出来ないだけだ。」
大脳公園の先にある学校から、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
鐘の音が遠くで響く中、夕凪はポケットから錠剤が5つ入ったビニール袋を取り出すと荒島に渡した。
「荒島、例の奴だ。儲かるだろ?これ。」
「ああ、すげーよなあ。これお前が作ってんだろ?」
「まあ、気体屋だからね。材料には困らない。」
夕凪が渡したのは独自に調合した気体を固めた、飲むと浮遊感が得られるという触れ込みの簡単に言うとドラッグである。
荒島はそれを仲間に売りさばいて小遣い程度の金を得ている。 「分け前、本当にいいのか?お前が作ったのに。」 「いいんだよ。これも道楽の一種だ。だが、この薬、お前は絶対飲むなよ。」 夕凪に錠剤を渡される度、念を入れられるのだが荒島はシンナーやドラッグに興味が無かったのでいつも軽く流している。 2人の少年の頭上を飛行機が白い道を作りながら飛んで行った。

4

今日診察の予定が入っていた患者を見終わると時計の針は昼の12時を過ぎていた。
あとの来診は先輩の先生方で充分だろう。と、凩は簡単に出かける支度をして
受け付けに「多分2、3時間程で戻ります」と告げて病院を出た。
精神病院へはバスで通勤している。
一応車は持っているのだが精神病院には職員用の駐車スペースが極端に少なく、それにバスや電車通勤だと交通費が支給されるのでバス停を降りて少しだけ森の中を歩かなければならないのだがそれに甘んじている。
森を抜け、白樺の林の間に亀裂のように黒い道路が通っている。
その道路の病院へ続く道と森から抜ける道で二股に別れている真ん中にバス停がある。
時刻表を確認すると次のバスは40分後となっていた。
これじゃ電車で行った方が良いかな。と、凩はしかたなく近くの駅まで行って電車で指切り通りへ向かう事にした。
心臓町には扁桃線という電車が通っているのだ。
肉色の車両に乗り込んで12分ほど電車に揺られると旧約束通り駅に着いた。雨除けの屋根が付いた乗降口しかない。改札も、建物も無い無人の駅だ。
駅に着くと、国道を挟んで指切り通りの入り口が見える。
― たしか、刃物屋と言っていたな。
凩は刃物屋を目指して指切り通りを歩いた。
この指切り通りは心臓町に引っ越して来た初めの頃に何度か買い物に来た覚えがある。
指切り事件の無かった当時は割と人通りの活発な商店街だったのだが今は人の気配がなく閑散としている。
それにしても、ここは異様な通りだ。
今日は珍しく快晴だというのにこの通りはやっぱりどこか薄暗い影に覆われている。
大振りのねずみか、黒い子猫の様な生き物が行く先を横切った。
用途不明の錆びたパイプが道も建物もおかまいなしにそこかしこに伸びている。
― 刃物屋。
しばらく歩くと刃物屋の看板があった。昔と変わらず軒先に置かれた刀剣が凩に切先を向けている。
― この道を行けば良いのだな?
刃物屋の横に狭い横道があった。建物の狭間から覗く空を塞ぐように古びたスナックの看板がいくつか並んでいて、その向こうに黒い外壁が見える。
― 次はあれかな?
黒い外壁の店には看板が見当たらなかったが、小さく開けられた入り口から、色とりどりのアクセサリーが並んでいるのが見えた。
その店の横にさらに狭い、人がひとり通れる程の裏路地があったのでそこをさらに進んでみた。
通気口から吹く生暖かい風が凩の顔を撫でる。
― 恵ちゃんは近くだと言っていたが…。
その小道を抜けると広い道に出た。指切り通りの入り口付近よりもさらに不気味な場所だ。
この辺一帯に並んでいる建物は他にも増して朽ちかけのような古さで、そこかしこ腐食しているのか赤みがかっていたり、緑っぽい錆が壁も道も浸食している。
なんだかさっきまでの通りとは微妙に違う世界へ迷い込んでしまったように感じる。
道行く人、皆がなにか別の世界の住人のような気がする。
あの道端にガラクタを並べている商人は頭が鳥の骨のようだが、ああいうファッションなのだろうか?
向こうの街灯の下に立っている人、体が異様にでかい気がする…
まるで世界を歪んだ水晶体で見ているような気分だ。じわじわと心の中に不安感が満ちてゆく。
なんだかこの場所がすごく恐ろしく思えてきたが精神科医の自分がマヤカシに惑わされてどうするのだ。と、そのまま早足に進んで行った。
「…あった…」
早足で歩きながら確認して行った看板のひとつに、目的の文字があった。

5

『病屋』
凩が立ち止まったその店の看板には錆れた銀文字でそう描かれていた。
すすけたガラス窓から中がぼやけて見える。
しかし、何やら用途不明のガラクタがひしめいていて中の様子はまるで分らなかった。
軋むドアを開けるとコロン、と小さなベルの音がした。
中は埃っぽく、雑然と物が詰まれていたが不思議とパズルのピースが組み合わさるように、 それが一番最適に収まっているようにも思える。
中は無音だ。客どころか店番もいるのだろうか?
「すみません、どなたか、いらっしゃいますか?」
凩は埃を吸い込まないように袖で口元を押さえながら声を発した。
くぐもった声がガラクタの奥の暗闇に吸い込まれたかと思うと、そこから凛とした声が返って来た。
「おや、お客さんですか?」
妙な男が店の奥からひょいっと顔を出した。
― 何だコイツ…。
凩が不審そうに見る。
病屋の店主とおぼしきその男はケロイドと天然痘を模したような眼鏡の様なもので目元を覆っていて、 どんな顔なのかはよくわからないが、口を三日月型ににこにこと凩に笑いかけて来るので 案外愛想が良い人間なのかもしれない。それとも単なる営業用の笑顔なのか。
そもそも病屋と言う店自体何を取り扱っているのかも不明だ。
店内を埋め尽くしているガラクタを見回してもやっぱり何を売っているのかはっきりしない。
「あの、店主さんでいらっしゃいますか?私は凩と申します。少々お尋ねしたいことがあって来たのですが。」
「ああ、お客じゃないんだ?」
不気味な店主は相変わらずニコニコと笑っている。
「あの、こういう子、この店に来ませんでした?」
凩は恵の母親に借りた写真を見せる。恵がまだ元気な頃の写真だ。
「あー、そーだね。来たヨ。」
店主はニコニコしながら写真を眺めている。
「実は私、精神科医でしてこの子は私の患者なのですが、今花を食べているんです。異食症ではないかと思って治療しているのですが…」
「この子はねえ、醜形恐怖症ってやつだよ。元からそんなに可愛くないけどさ。」
店主は凩に写真を返しながらぎひひと笑った。
恵はそれほど不細工というわけではない。
「友達がさ、可愛い子ばっかりだからそれが劣等感なんだって。整形すれば?って言ったんだけどお金無いから駄目だって。その子、幼い頃は可愛い可愛いって言われてたのに成長したらぱったり言われなくなったらしいよ。歳とれば仕様がないよねぇ。だからね、醜くならない病というのを買っていったよ。」
― 病を売る店…。恵の証言と一致するがにわかには信じられない。
「だからって、なんで花を…」
「そこまでは僕にはわかんないねぇ。花を食べれば可愛くなると思ってるから食べてるんでしょ。」
店主はそっけない。
「治す方法、ないんでしょうか。」
「んー、僕は悩みを持った人間が救われるための病を売ってるだけだよ。それを治すって事はまたその子を苦悩の人生に引き戻すってだけだよ?」
店主は凩を諭すような口調で言ったがなんだか腑に落ちない。
なんだろう、この店主の言っていることは良いことなのか悪いことなのかわからない。
今のままでは恵ちゃんは気の触れた少女ということで希有な目で見られ続ける。家族にも心配をかけ、命の危機にすら直面している。
でもそれを治すことは恵ちゃんにとっていらぬおせっかいだとでも言うのだろうか。
「その、病というのを見せていただけないでしょうか。それを解析して…」
「ぎひひ。無駄だよ。ここで売ってるのは心の病だからねえ。」
「心の…?そんなこと出来るわけないでしょう!」
この店主の飄々とした態度はなんだか人をおちょくっているようにも思えてきた。
「出来るからやってるんだ。僕には心がわかるよ。君のもね。」
コイツは新手の詐欺師だろうか。
霊能者や占い師だってそうだ。そういう目に見えない事柄を扱って金を得ている人間は他にもたくさんいるのだ。
「わかりました。実を言うと他にも私の患者がこの店と関わりがあるのではないかと思っているのです。」
「うん。」
「また、ここに来ても良いでしょうか?もしもあなたが正常な精神を病ませているというなら私はとても興味深いです。」
凩は病屋のインチキを暴こうと躍起になっている。
自分は精神科医だ、一般よりも心に対しての知識がある。仮にもしこの店に精神に異常を来す何かがあるというのなら、それはそれでとても興味深い。
「いーよいーよ!それじゃあ僕たち友達だねえぎひひ。あ、僕の名前は毒田っていうんだ。心のドクターなんちゃってね。」
毒田は訝しげな凩の気持ちなど上の空で異常に長い裾の切れ目から出した蟲のような手で凩の手を掴むとブンブンと勢い良く上下に振った。
凩が帰り際に病屋の営業時間を訪ねると、「いつでもおいでよ。ここ25時間営業だから。」と手を振ってえらく上機嫌で見送ってくれた。
これが奇妙な店の店主、毒田との出会いだった。


凩が指切り通りの元来た道を帰る途中、数人の少年達がぎゃあぎゃあと騒ぎながら廃ビルの中に入って行くのが見えた。
この寂れたストリートには廃ビルもたくさんある。
廃屋に鍵がしてあっても壊せば良いだけの話だ。そんな思考が当たり前の、家があって無いような子供らには格好の集会所なのだろう。
― まだ昼の2時過ぎじゃないか。学校は終ったんだろうか…
凩はビルに入って行く少年達の背中を軽く蔑視していた。

6

「乙骨さあーん!見つけましたよ被害者の共通点!」
歌無雄の甲高い声に来客用のソファで仮眠を取っていた乙骨は不機嫌そうに睨んだ。
「あのですねぇ、この子達コーラが大好きみたいです!」
歌無雄がそう言うと乙骨は持っていた日本刀の鞘で思い切り歌無雄の頭をはたいた。
「うぎゃっ!」
「バカタレぇ!オレぁ寝起きが悪いんだ。もっとマシなこと言わねーとぶった切るぞ!!」
「おうぅう…イテテ。最初に言ったのは首吊坂先輩ですよお。」
歌無雄がこぶの出来た頭をさすりながらソファに目をやると、その後ろから首吊坂がぬうっと頭を覗かせた。
首吊坂は大のオカルトマニアで妙な人物の多い不可解課の中でも特に変人だ。
「この被害者達、腹に入ったなにかが急激に膨らんだことで体がはち切れたんだとそう思いました。」
首吊坂はぼそぼそとしゃべった。
「それで被害者の好物を調べたってわけか?」
「そーなんですよお!僕が調べました。」
歌無雄が手柄を取られぬように割り込んで来た。
「この子ら不良の割にあんまりお酒飲まないみたいです。」
その言葉に乙骨は目を光らせた。
「被害者らは全員クスリやってんだ。何のクスリかはわからねえ。遺体から薬物は検出されなかった。だが聞き込みによると確かにある1人のバイヤーからクスリを買ったという証言がある。」
「じゃあ、そのクスリ飲んだから体が爆発したのか…」
「ああ、その可能性は高いな。」
「乙骨さん、どうして僕たちにはそういうこと教えてくれないんですか」
歌無雄は涙目で訴えた。
「これがそのバイヤーからクスリを買った人間のリストだ。大半はまだ生きてる。歌無雄はそいつらの好物も調べとけ。」
乙骨がよれよれのコートのポケットから無造作に出した2枚のメモはくしゃくしゃになっている。
その両面に乱雑に名前がいくつも書いてあった。ざっと100人分くらいの名前が書いてありそうだ。
「うえー僕ももっと派手な仕事したいんですけどぉ」
「うるせぇ。それも立派な仕事だ。」
「乙骨さん、ダウジングしに行ってもいいですか?」
「首吊坂…おまえも真面目に仕事しろ。」
「仕事ですよ。溜池枯渇事件。」
「そんなこたあ土地屋にでも頼んどけ!」
無駄に張り切り屋の新米とマイペース過ぎる変人部下の相手は相当疲れるようで乙骨は深いため息をついた。

7

荒島は心臓町にある血管住宅街という巨大な団地の一室に一人で暮らしている。
質の良いとても広い部屋なのだがその広さを感じさせない程、無数の飛行機や鳥の模型が置かれ、衛星写真のポスターが壁を占拠している。
荒島には父、母、それと弟が1人いるのだが、遠く離れた街で暮らしている。
学校に通うのに不便だろうと荒島一人をこの部屋に住まわせているのだが、本当は違うのだ。
本当は父親から見放されている。愛されていないのだと思う。

荒島の父親は旅客機の操縦士をしている。
父は幼い頃から空が好きで、絶対にパイロットになりたいという夢を持ち、それを見事実現させたそうだ。何かあるといつも自慢げに話してくれた。
荒島も空は好きだ。いや、飛ぶ事に憧れを抱いているのだ。
大空をすいすいと泳ぐことは、体を縛る物など何も無いような、そんな自由さがある。
しかし人間は飛ぶことが出来ない。
飛行機や気球なんかで空へ行く事は出来ても、鳥のようになんの道具も支えも無くして飛ぶ事は出来ない。
荒島はある種の高所恐怖症だった。だが高い所自体は平気なのだ。
ただ自分を高所で止めている飛行機や気球なんかの乗り物が信頼出来ない。
地上から遠く引き離され、もしも落ちたらそれまで。自力で助かる事はまず無理である。
だから自分の体以外のモノに命を預け、空を飛ぶ事がとても恐怖だった。
そんな荒島に父親は失望していた。仕事で貰った航空写真なんかは喜んで見るのに、今度は飛行機に乗せてあげようと言っても頑に拒否する。
将来、息子達にもパイロットになって飛ぶ事の素晴しさを知って欲しかったのだが、長男の荒島がそんななので弟ばかりを可愛がるようになっていった。

窓の外に夜が忍び寄り部屋にいっそうの孤独感を映し出す。

空を飛びたい。
足を掴む地面を振り払って、でもそうやって行きたいと願う先はどこなのだろう。
空、宇宙、それとも…

荒島の憧れる空は街を血のように赤く染めていた。




ふと、目が覚める。
しばらくソファでごろ寝しているうちに眠ってしまっていたようだ。
荒島は夢を見た。
時間にすれば30分にも満たないのだが、とても、とても長い夢だ。

弟がまだ母のお腹にいた頃だ。だからまだ3〜4歳の頃だろう。
家族3人で遊園地に行った。
母のつわりが落ち着いたので弟の世話で忙しくなる前に荒島の為にもう一度だけ3人で思い出を作ろうと、遊園地に連れて行ってくれたのだ。
大きなうさぎに風船を貰って、父さんに肩車をしてもらった。コーヒーカップに乗ってくるくると回りながら柵の外で見ていた母さんの方を見ると嬉しそうに手を振ってくれたっけ。
楽しかった。楽しかった。
でもひとつだけ嫌な思い出がある。
父さんに連れられて乗ったジェットコースター。
あれが未だにトラウマになっている。
なんてことない、子供用の小さめのジェットコースターだったのだが、乗り物に体を固定されたまま真っ逆さまに落ちて行く感覚がとても恐怖で、ジェットコースターを降りてから父の足にしがみついてずっと泣きわめいていた記憶がある。

きっとその出来事が荒島の飛行機嫌いの根底にあるのだ。
そんなたわいもない答えに辿り着いているのに克服出来る気がしない。怖いものは仕方がない。
でも自力で空を飛べたなら例え飛行機が落ちても逃げられる。
空を飛びたいという憧れもきっとそこから安心感を得たいのだと思う。

寝起きの所為か掴みどころの無い倦怠感が体に被さっていた。起き上がるのが億劫だ。
クスリ売りに行くのは明日で良いか。とぼんやり考え、再び目を瞑る。
再び夢の続きを見れるよう願いながら。

8

今日の診察で恵には病屋というのは詐欺で、醜くならない病などなんの確証もないただの幻想であることを説明しようと思っていた。
病屋の店主は治さない方が良いような風を言っていたが、やはり命には代えられないと思う。
恵は平日の診察の時は学校に行くのをを少し遅らせて午前の早い時間に診てもらっている。
時計の針が9時10分を差すと凩の診察室にノックする音が響いた。
「入って、」
凩がカルテを整理しながら呼びかけると制服を来た恵と付き添いの母親が入ってきた。
「先生、聞いて!あのね…」
恵はそう言いながらウフフと笑った。
「おはよう。恵ちゃん。何か良い事があった?」
「あっ、おはようございます先生。実はね、私わかったんです。綺麗になる為にはお花になれば良いんだって。」
恵はついつい挨拶を忘れてしまうくらいはしゃいでいるようだ。痩せこけた顔に笑顔が広がっている。
しかし恵が花を食べる理由は前は花の妖精がどうだとか言っていたが、これはもしかして悪化しているのではないだろうか。
凩はつい恵の話を遮って口を挟んでしまう。
「恵ちゃん、聞いて。僕は君の言っていた病屋に行ってみたんだが、あそこはどうも胡散臭い。君は病気だと思い込んでいるのだろうけど、どう見たって…」
「もー先生。私の話まだ終ってないんですけど。」
恵の薄い頬が膨れた。
精神科医の凩には患者の話をしっかり聞いてあげる事も仕事なのである。
凩は話の腰を折られてしまったが「ああ、ごめん。」とつぶやいた。
「恵、先生にあまり失礼な態度とらないの!」
母親は困ったように恵を咎める。
「ああ、結構ですよお母さん。恵ちゃん、それで何があったの?」
「ふふふ。この病のおかげでね、私、ずっと気になってた人とお話する事が出来たの。」
「へえ、よかったねえ。」
恵の病の原因はやはり恋愛事だったのだろうか。
好きな人に振り向いてもらう為に過度に痩せて、それで綺麗になっていると思い込んでいる。
「帰りの電車でたまに乗り合わせるんだけど、すごくかっこいい人なの。私はずっと見てるだけだと思ってたんだけど、昨日その人がね、種をくれたんだあ。」
「たね?」
「そう。その人はね、その種を飲むと体が軽くなるんだって言ってた。私、たんぽぽの綿毛みたいですねって言ったら、笑いながらそうだねって」
種?種というのは何だ。もしかして覚醒剤の類いなのではないだろうか。
「恵ちゃん、その種って…」
「今は持ってないの。昨日飲んでしまったから。でもねその種を飲んだら体がふわふわ浮いたの。このくらい。本当よ?」
恵はそう良いながら親指と人差し指を5センチほど離してみせた。
「だからね、その種をもっとたくさん飲めば、私は綿毛になって芽を出して綺麗な花を咲かすんだって。そう思うの。」
娘の話を聞きながら恵の母は悲しそうに眉をひそめた。
「恵ちゃん…」
「先生は信じてくれるよね?」
「恵ちゃん、それは多分覚醒剤だ。危ないよ。体が浮いたように感じたのかもしれないけどそれはただの幻覚だ」 「幻覚じゃないわ!!」
凩の言葉に恵は激昂して怒鳴ったがすぐに軽い息切れをおこした。
「わかった。わかったよ。君の話を信じる。だからさ、花以外のもの食べるようにしよう?」
凩は今はなんとかして花以外の食物をきちんと摂って元の健康な体に戻す事を優先させようと話をあわせることにしたが、「先生なにもわかって無い」と恵は怒ったまま診察室を出て行ってしまった。
恵の母は「申し訳ありません」と深く詫び恵の姿を追った。
残された凩はひとり深いため息をつく。
自分では恵を救う事は出来ないのだろうか…。と。

9

帰りに凩は警察署へ寄ってみた。
コンクリートで出来た積木がちぐはぐに堆く詰まれているような、とても不安定な気持ちになる建物だ。
4階に不可解事件捜査一課という部署がある。
そこで取り扱う事件の犯人は何かしら心に理解不能な問題を抱えている者が多く、 凩の勤める精神病院に事件解決のアドバイスをもらいに刑事達がやって来るのだが 病院ではその刑事達の相手を新人の凩が受けることが多いため、ここの刑事達とは親しいのだ。

4階の錆びれた廊下の電灯がひとつチラチラと点滅している。
中程に『不可解事件捜査一課』と書かれた扉があり、なんだか不穏なオーラが沁み出しているような陰鬱な空気が漂っている。
凩は申し訳程度にノックをするとそろりとドアを開けて中を覗き込んだ。

― 誰もいない?

中はがらんと静まり返っている。
電気は付いているが、みんな捜査に出ているのだろうか?それとももう帰ってしまったのだろうか?
「何してんの?先生」
「わっ!!」
なんの気配も無しに突然後ろから声をかけられて凩は驚いた心臓につられるかのように体がびくんと跳ね上がった。
振り返ると黒いフード付きのカーディガンを着た、体格は良いのに病的にしか見えない不思議な男が手に牛丼の袋を下げて突っ立っている。
「あ、首吊坂くん…」
「凩せんせーどうしたんですかあ?」
首吊坂の後ろから歌無雄が顔を覗かせた。
「僕らちょっとご飯買いに行ってたんですよ。あ、御用でしたらどうぞ入ってください!」
歌無雄はぴょこぴょこと部屋へ入って行くと来客用のテーブルの上に散らかった書類を片付け始めた。
「もー乙骨さん、お客さんがいるので寝るなら仮眠室で寝て下さい」
と歌無雄が文句を言うと、ソファで寝ていたのかむくりと乙骨が起き上がった。
ぼさぼさの頭をかきむしって大きな欠伸をしている。
「すみません。みなさん休憩中に…ちょっと報告していた方がいいかなと思う事があって…」
歌無雄に招かれてソファに腰を下ろす。
対面して座っている乙骨は寝起きの所為かいつにも増して不機嫌そうな目つきだ。
「なんですか?」
「実は僕の患者なんですが、覚醒剤に手を出してしまったんじゃないかと…」
乙骨の隣に座った歌無雄は人懐っこいというか常識的と言うか、この中では一番話がしやすい。
恵の言っていた種の話を続けようとすると首吊坂が凩の隣にでん、と座ってビニール袋をワシャワシャと騒がしく鳴らしながら牛丼とお茶の缶をテーブルに並べ始めた。
「先生も食べます?一口あげます。」
「あ、ああ、いいよ首吊坂くん、僕はすぐ帰るつもりだから。」
「そですか。」
首吊坂は素っ気なく答えると自前とおぼしき一味唐辛子を牛丼の表面が真っ赤になるほど振りまいた。
「先生すみません。食べながらで良いですかあ?僕らお昼も食べてなくって〜。あ、コーヒーでも…」
そう言って立ち上がろうとした歌無雄を凩はあわてて引き止める。
「ああ、お構いなく、突然来てしまったのはこっちだし、」
「えーっと、じゃあ遠慮なく…」
歌無雄が自分の前に置かれた牛丼の蓋を開けるとチーズの匂いが立ちこめる。
「なんだよおめーはまたそんな女々しいもん…」
乙骨が歌無雄のチーズ入り牛丼を横目に文句を言っている。
「いいじゃないですかあチーズ大すき!」
「あ、あの〜話を続けても良いでしょうか?」
「ふぁいどおぞ」
歌無雄は口いっぱいに牛丼を詰め込んでいた。
「その、それが覚醒剤なのかはわからないんですけど、その子は“種”って言ってました。飲むと体が浮いたって…そういう名称のドラッグとか、大麻みたいな新手の植物の種かもしれないですけど、そういうのって出回ってるんでしょうか?」
「浮く、と?」
3人の刑事達は凩の話にふと目を向けた。
「凩先生、実は今、連続人体爆発事件ってありますよね?実はそれ、なんらかの薬が引き起こしているんじゃないかと思ってるんです。」
― 人体爆発事件…今巷を賑わせているあの人が突然爆発するという事件か。
「一人容疑者のバイヤーが上がってるんですけど、そいつが売ってる薬ってのが浮遊感を得られるクスリらしくて…」
「先生、それってキャトルミューティレーションじゃない?」
歌無雄が真剣な顔で話しているところを首吊坂が口を挟む。
「キャ…キャト、ル?」
聞き慣れない言葉に戸惑っていると「UFOが攫ったんだ。」と首吊坂が補足した。
「あー、えっとその子は5センチくらいしか浮いてないって…」
凩は首吊坂の言動にどう受け答えしていいのかたまにわからなくなる。
「じゃあ幽体離脱」
「首吊坂、黙って喰ってろ。」
乙骨は首吊坂の唐辛子の小瓶を奪うと自分の牛丼にかけ始めた。
「その患者さん、その種ってのは、まあ僕たちが追っているクスリのことなんだと仮定して、どこで手に入れたとか言ってましたか?」
歌無雄は仕事には真面目なので話を進めてくれて助かる。
「えっと、たしか帰りの電車でたまに乗り合わせる人にもらったって…ずっと気になってたとか、かっこいいって言っていたから男の人だと思います。」
「電車かあ…どの区間までかはわかりませんか?」
「えーっとそれはちょっとわからないけど、その子は手野高に通ってて、心臓町と味蕾町の境目辺りに住んでいるから下りの電車かと…」
「有力な情報ありがとよ先生。」
乙骨は牛丼をむさぼりながら凩に礼を述べた。
「いえ…お役に立てたのなら…」
「でも乙骨さん、バイヤーって血管に住んでますよ。帰りに手野高の生徒と乗り合わせる事ないでしょ。」
「じゃあ電車の男はバイヤーから手に入れたクスリを先生の患者さんに渡したとか…」
「味蕾町方面に住んでるやつをリストから洗ってみるか。」
刑事達は凩の持って来た情報で人体爆発事件の話し合いを始めた。
凩は蚊帳の外に放り出された気がして口を挟む。
「あ、あの〜ちょっと気になってるんですけど、その、クスリを飲むと人体が爆発するって、いったいどうやって…」
凩は恵の言っていた“種”と人体爆発事件が関連しているかもしれないということを知ってよりいっそうの危機感を持った。
恵はあれをもっとたくさん飲めば…と言っていた。
恵を救おうと必死なのに、衰弱死にくわえ爆死の危険性まで出てきたのだ。
「いや…あくまでその説が強いってだけでまだ決まったわけじゃないんだが、コイツによるとそれは飲んだら胃の中で空気が膨張するクスリじゃないかって言うんだ。」
そう言って乙骨は割り箸で首吊坂を差した。
「それは、たとえば人間を風船に見立てたとして、クスリを飲む事で、体内でヘリウムみたいな軽い気体が充満して浮遊感が得られるとか?」
首吊坂は「うん。」と答えた。
「それは…」
それはいくら何でも不可能だろう。もし体が爆発する限界まで気体を充満させたとしても、人体を浮かせるなど到底不可能のように思えるが。
恵の“種”と人体爆発事件のクスリは無関係なのだろうか…。

10

荒島が珍しく学校を訪れた。といっても午後の授業もすべて終って皆帰り支度をしている。
脱色した髪を逆立て、フライトジャケットを着ている荒島は目立つ格好ではあるが、この学校ではきちんと制服を着ている生徒などごく一握りしかいない。
みな好き好きに派手な格好で騒いでいるので普段からそれほど存在感のない荒島が帰り際にひょっこり現れてもクラスメイト達は誰も気付かなかった。ただひとり除いて。
「よお。荒島」
夕凪は荒島の姿を廊下に見つけると教室から出てきた。
「なんだよ。話って」
荒島は今日もサボってのらりくらりするつもりだったので夕凪からわざわざ学校に呼び出され少々不機嫌だ。
どうせ会うのならこんな騒がしいだけの学校ではなく人の少ない公園の方が良い。
「話は俺の家でな。」
そんな荒島を尻目に夕凪は荒島を連れて学校を出た。
行き先の夕凪の家は肉桂町にあるこの学校からでは電車に乗ってしばらくかかる。
今は4時前なので夕凪の家に着くのは5時を過ぎたくらいだろうか。
電車は下校する生徒でごった返していたが心臓町の人間はほとんどが血管住宅街に住んでいるので その近くの駅に到着するとごっそりと乗客が減った。
やっと楽になった。と2人は空いたボックス席に落ちつく。
夕凪の家まではあと半分くらいかかるだろう。
「荒島、例の奴、まだ残ってるか?」
「ああ。昨日はちょっとめんどくさくて行ってない。」
「そうか。こちらとしてはなるべく早くさばいて欲しいんだが。」
「すまん。」
夕凪の話とはなんだろう。窓の外を流れて行く景色を眺めながら荒島は思った。
夕凪とはかれこれ10年、いや11年の付き合いだろうか。
たしか小学校1年のとき、その頃の記憶はあまり無いのだが夕凪がやたらと気にかけて仲良くしてくれたのは覚えている。
荒島はその頃からすでに無愛想で人を寄せ付けないオーラのようなものを持っていたので無意味に怖がられて友達ができなかったのだ。
そんな事も気にせず夕凪は荒島を誘って、2人でよく遊んだ。
いくら無愛想と言っても遊びたい盛りの子供である。荒島は夕凪が仲良くしてくれたことがとても嬉しかった。
仲良くなってからは夕凪の家によく遊びに行っていたっけ。
夕凪の実家の気体屋は危険物が多いのだが見慣れぬ道具の並ぶ倉庫は子供にとって格好の遊び場である。
しかし夕凪には母親がいない。小学生になる前に死んでしまったらしい。
父親も仕事に出ていて会う事は稀だった。だから夕凪の家はなんだか寂しげな印象が残っている。
吹きすさぶ風は海の匂いを孕んでいる。
2階の夕凪の部屋の窓からはほんのわずかだが海が見えた。
あれからあの家は変わってしまっただろうか。

途中、大脳公園近くの駅に電車が停まり、乗客が何人か乗り込んできた。
その客を見るなり夕凪の顔が凍り付いたように見えた。
「夕凪?」
一体何を見たのだと荒島が夕凪の凝視する方向を見る。
そこにあったのは確かに異様な光景だった。

枯れ木のような女学生が、線路脇にたくさん咲き乱れていたコスモスの花を手に持ち、それをむしゃむしゃと食べていたのだ。

夕凪はその女生徒を凝視したまま冷や汗をかいているようだ。
そしてふらっと立ち上がるとその女生徒に近づいた。
「や、やあ。こっち空いてるけど座らない?」
と、その異様な女生徒をこちらへ連れてくるではないか。
荒島は正直、勘弁してくれと思った。
荒島の隣に座ったその女生徒は酷く痩せ細っている。
それよりもなぜ花を食べているのだろうか。
「荒島、この子、恵ちゃん。帰りの電車でよく乗り合わせるんだ。今日も会ったね。」
夕凪がそう笑いかけると恵は少し恥ずかしそうに俯いた。
「恵ちゃん、こいつは荒島っていうんだ。まあ、俺の親友ってやつ。」
荒島を紹介されたが萎縮しているのか目を合わせぬまま「はぁ、」と小さな返事をして軽く頭を下げた。
「あのさ、ところで恵ちゃん、この間あげたの、飲んだ?」
「はい。あの、あれ本当に浮くんですね…浮遊感っていうか、本当に体が浮いたので、びっくりしました。」
― 浮いた?なんの事だ?夕凪はこの娘にあのドラッグを渡したのだろうか?
夕凪の顔を見ると、恵の言葉に一瞬驚き、そして笑顔に変わった。
「浮いたんだ。そっか。恵ちゃんすごく体細いからね。」
「そんな…」
恵は照れているのか、ナナフシのような指がコスモスの花をくにゃくにゃと弄んでいる。
「あ、あのう…夕凪さん、あの種ってもっと貰えないですか?私、あれをもっとたくさん飲めばちゃんとした綿毛になって、お花になれると思うんです。」
― この恵という娘は頭がすこしおかしいのだろうか、と荒島は横目で見ていた。
「そうだね、あれが欲しいなら指切り通りのSeeComeという廃ビルに来ると良いよ。そこの地下で手に入る。コイツがいるからさ。」
夕凪は荒島にウインクしたが荒島はあからさまに嫌な顔をした。
「…そうですか…わかりました…」
「あー、でももし俺が持ち合わせてた時は君にあげるよ。またこうやって電車で会えたらの話だけど。」
その言葉に恵は顔を赤らめてはにかんだ。
夕凪の顔はいつもどおりの柔和な笑顔だったが、その瞳の奥は何か野望がぎらぎらと灯っているようだった。

11

しばらく電車に揺られていると海が見えてきた。
心臓町最果ての喪失岬駅で恵と別れて荒島と夕凪は電車から降り立った。
「おい、なんなんだよあの子…」
「荒島、」
夕凪はふふふと不敵に笑った。
「お前の夢、もうすぐ叶うかもしれないぞ。」
「は?」

夢、俺の夢は、空を飛んでみたい。鳥のようになんの支えも無く、自力で…でもそんな馬鹿げた夢が本当に叶うなんて思っていない。
でもあの異様な女は宙に浮いたと言っていたが…


駅から人通りの無い道をしばらく歩くと懐かしい2階建てのあばら屋が見えてきた。
夕凪の家は昔と変わらなかった。いや、やはりよく見ると老朽化しているか。
潮風に枯れた野草がゆらゆらとなびいていてまだ秋も始まったばかりだというのにここは冬を感じさせる。
「入れよ。父さんは大学の方に仕入れに行ってるから、今日は戻らないと思う。」
一階は倉庫になっていてたくさんの種類のボンベが転がっている。
狭い階段を昇って夕凪の部屋に通された。
小さい頃は床いっぱいにボードゲームを広げたり寝転んだりして遊んでいた部屋が今はとても狭く感じる。
広さは6畳ほどなのだが壁一面に小難しそうな本が積まれ、机の上にも化学式のビッチリ書かれたメモや妙な実験器具や小型のボンベが散乱していて大人2人ギリギリ座れるほどしか足の踏み場がない。
「きったねー部屋だな。」
「お前の部屋も似たようなもんだろ。」
夕凪ははははと笑った。いつもより上機嫌な気がする。
「それで、なんだよ話って。」
「…実はだな、お前に話しておかなきゃならない事があったんだがそれどころじゃなくなった。」
「あ?」
「お前、いつも俺が渡していたドラッグがどういうものかわかるか?」
「んー…よくわかんねーけど。気体を固めたクスリだろ?」
「そうだ。でもそれは実験だったんだよ。お前の夢を叶える為の。」
「それは、…空を飛べる薬ってことか?」
荒島がいくら馬鹿でも今までの出来事を総合すればそれくらいの見当はつく。
ドラッグと称した試作品を実験台に飲ませる為に自分に売らせていたのだろう。
「あの恵って子、前からちょくちょく乗り合わせていたんだが最近になって急激に痩せ始めた。先月はまだ普通の子だったんだ。だから俺は拒食症になったんだと思った。」
荒島もそう思った。しかしあの子は花を…
「ああいうのは痩せられれば何でも良いだろうと思ってさ、声をかけたんだよ。この薬を飲めばもっと体が軽くなるって。話を聞くとあの子、綺麗になる為に花しか食べないらしい。なんでそれで綺麗になるのか俺にはよくわからなかったが、ようやく、実験成功した被験体を見つけたよ。あの薬はアルコールを飲むと血中での気体の作用を妨げてうまく機能しないんだ。」
恵とかいう娘は明らかに夕凪に気がある風だったが、とうの夕凪はモルモットとしか見ていない。
荒島はなんだかすこし恵が哀れに思えた。
「荒島、俺が天才だってことはわかるよな?」
「まあ、な。そう思ってるよ。」
「だから俺は生物を浮かせる気体を開発した。」
「そんなものが作れるのか?」
「ああ。あの薬はその気体を固めたもので飲むと血液に溶けて全身を巡る。そうすることで体内の浮力をだな、今こうやって吸ってる空気と近いレベルにしてやるんだ。腐っても気体だからな、一通り全身を巡ればまた肺から体外に吐き出される。体が空高く浮いたとしても徐々に重力に引っ張られて地上に降りる事ができるだろうさ。」
夕凪はそんなものまで作ってしまうのかと、荒島は夕凪という友人を持った事をなんだか誇らしく思えてきた。
「夕凪、それってすごい事なんじゃ…」
「ああ、すごいだろうさ。でも俺はこのクスリを世間に公にさせるつもりは無い。荒島、お前にもその事を守って欲しいんだ。」
「何故」
何故だ。
人が空を飛べる薬を作ったのなら一躍時の人だろう。一生食うに困らない莫大な金と名誉が手に入るのに。
「これはあくまで道楽なんだよ。荒島。2人だけの秘密でありたい。お前だけに空を飛んで欲しい。それじゃ駄目か?」
夕凪は、何故ここまで自分に尽くしてくれるのだろう。道楽の域を越えているのではないだろうか。
「…荒島、俺には時間が無いと思っていたが、可能性が現れた。くれぐれもこの事は、誰にも言わないでいて欲しい。」
夕凪はそう頼んだが、荒島がそんな事をべらべらと話せる程親しいのは夕凪しかいない。
そこは安心しろ、と言っておいた。

12

荒島は夕凪と別れた。もう日も落ちかけている。
家に帰る前に昨日貰ったクスリをさばいてしまおうかと指切り通りへ向かう事にした。
これを飲んで、また実験が成功…体が浮くような奴が現れれば、完成にまた一歩近づくのだろうか。
電車に揺られ、途中の指切り通りの無人駅で降りた。
その頃には太陽はすっぽりと顔を隠し、藍の空に残り香のように雲を照らしている。
駅側の入り口から指切り通りに来たのは初めてだった。
いつもは血管住宅街からバスが出ているのでそれに乗って向かうのだ。
この指切り通り、通りと言っても道がそこかしこに伸びていて迷路のようになっている。
迷ってしまったらどこか別の世界に通じてそうなそんな不気味さがある。
まだ暗くなりきれていない、夕方とも夜ともつかないこの時間帯だとなおさら不気味だ。
荒島はSeeComeといういつもクスリをさばいている廃ビルへ向かおうとしたが、変に好奇心が湧いてしまい、今日は適当な道を通ってみるか、と気まぐれに脇道を進んで行った。

SeeComeへはこう進めば着くだろうとだいたいの予測をしながら歩いたつもりではあったのだが、どうやら一度も訪れたことのない場所に出てしまったようだ。
人間とは思えない不気味な格好の通行人達がゆらゆらと彷徨っている。
今にも崩れそうなボロ屋ばかりが軒を連ね、妙なオブジェが道端のそこかしこに引っかかっている。
その中でふいに一見の店が目に入った。
すすけたガラス窓からぼやけて見える店内に奇抜なデザインの飛行機のようなものがぶら下がっている。
荒島はなんだか父の顔を思い出し、まだ時間もある事だし、と暇つぶしにその店に入ってみる事にした。
ドアを開けるとコロンとベルが鳴った。
この店はなんなのだろう。雑貨屋か古道具屋か?
店内を見回すと今まで見た事も無いような用途不明のガラクタが詰まれ、ごちゃごちゃしてはいるがなぜか散らかっているという印象は受けない。
窓から見えた飛行機のようなものはどこかの民族の紋様が施され銀メッキが剥げかけている。
「それねぇ、鳥なんだよね。」
ガラクタの奥から突然声がしたので驚いてそちらへ顔を向けた。
店の奥のカウンターテーブルに顔の爛れた男がにやけ顔でこちらを見ている。
店の人がいたのか…。
人の気配など微塵も感じなかったので荒島は少し驚いていた。
その男に近づいてみる。
よく見ると顔が爛れているのではなく、そんなデザインの眼鏡のようなものをかけているのだと理解した。
「いらっしゃい。ここは病屋だよ。心の病気を売る店だ。」
店主はぎひひと笑った。
「やまいや…?病気って、んなもんに金払う奴いんのかよ。」
「へー知らないで来たんだ〜。まあたまにいるよね。君みたいな子も。」
この店主の小馬鹿にするような言い方はなんだか少しムカつく。
「病と言ってもね、第三者の目には異常に映るだけであって、それが本当に不幸なのかどうかは自分には関係ないヨネ。」
「オレは病なんかいらん。」
「そっか。それでもいいよ。うん。でも言わせてもらうと君は買ってった方が良い気がするけどね〜。」
なんなんだこの店主…
「病、買ったらどうなるんだよ。オレはキチガイになった方が良いってのか?」
「病にも色々あるんだよ〜ここは病屋だからね。苦手な人を好きになる病とか鬱にならない病とか他にも色々。」
この店主の話は荒唐無稽、にわかには信じられない単なる妄想話にしか聞こえないのだが、暇つぶしに入っただけなのに荒島はこの不思議な店に少し魅了されたのかもしれない。
「オレは空が飛びたい。そういう病なら買ってもいい。」
荒島は面白半分にカウンターテーブルに手をついて店主に詰め寄った。
「空か〜、君は空を飛んで、何がしたいわけ?」
何…って?何がしたいんだろう?空を飛べれば飛行機に乗って、もし落ちたとしても大丈夫だ。
だが、ただその安心感の為だけにこんなにも空を飛びたいと願っているのか?オレは…
「空は良いよネ〜自由って感じ!あ、もしかしてさ、どこか行きたいの?外国とか?」
外国…か…もし空を飛べたなら家族の住む街まで飛んで行ってみたいような気もする…。
荒島は思案した。今までずっと空を飛ぶ事に憧れを抱いていたがいざ空を飛べたらどうしたいなんて考えた事はなかったのだ。
店主は突然ぎひっと笑うと
「実はねえ、空飛べる病、あるんだよね。」
と言った。
「…本当か?」
「病、かけてあげようか?」
「ああ。できるんなら」
どうせ信じていないのだが、かけてくれるというのならかけてもらおうじゃないか。
「5まんえん。」
「あ?」
「病も無料じゃないよ。」
虫のような指を広げてニヤニヤ笑っている店主に荒島の期待は一気にしらけた。
こんな見え透いた詐欺行為に金を払う馬鹿がどこにいるのだろう。
しかし店主はなおもしつこく「君は、買ってた方がいいと思うヨ。」と勧めるので怒鳴りつけてやった。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。払うわけねーだろ。」
荒島は踵を返して店を出た。
あんなみょうちくりんな店主の話に付き合ってしまった自分を少し、殴りたい。

荒島が乱暴にドアを閉めると店内に埃が舞った。
病屋の店主は一人、煤けた窓の外を歩いて行く荒島の姿が徐々にぼやけてゆくのを見てぎひひと笑った。

13

指切り通りをしばらく彷徨うと見知った道に出る事ができた。このまま真っ直ぐ行けはSeeComeに着く。
荒島はフライトジャケットのポケットを探る。
あのとき、恵にこれを渡していた方がよかったのだろうか?
そうすれば実験を成功させた恵でもっと実験結果が得られたはずだ。
でもあんな異様な女と関わりたくなかったのだ。
だからもっとクスリが欲しいと言った時も自分が今持っている事は口に出さなかった。
そうこう考えてるうちにSeeComeの前までやってきた。
元々は小さな結婚式場だった建物で、洋風の外装に壁一面ステンドグラスの窓が並んでいる。
ここの地下が宴会場になっていて、不良達の絶好のたまり場になっているのだ。
集まるのは主に荒島と同世代の学生が多い。
肉桂町は心臓町とはまた違った治安の悪さがある。
夜の街は本格的にそっちのスジの人間や暴力的な人間が闊歩しており、子供が溜まれるような場所が無いので、ぬるく羽目を外したい若者達がこちらに集まって来るのだろう。
扉を開けるまでは人の気配などしないのだが、中に入ると地の底からドンドンと振動が伝わってくる。
階段を下りて地下宴会場の扉を開ける。
あいかわらず騒がしい。
大音量で流されたBGMは音楽というよりもただの音の振動として荒島の体にぶつかってくる。
鼓膜が破れそうで荒島はあまり好きではなかった。
とりあえず音源から遠くて少しでも静かな宴会場の隅っこへ行こうかと、踊る人ごみを掻き分けて進んでいると、いつもクスリを買う連中や同じ高校の顔見知り達が酒に酔いながら 「おー荒島久しぶりー」「クスリ売ってくれよ〜」と話しかけてくる。
しかし夕凪はアルコールを飲むと上手く機能しないような事を言っていたから、狙うなら酒を飲まなさそうな奴だな。と 素面の実験材料を探すことにした。
v
壁にもたれて実験材料を物色する。
薄暗い宴会場に色とりどりのライトが舞っていて、その中で大勢の若者達がうぞうぞと蠢いている。
目を細めながら見渡すと派手な格好をした、いかにも遊んでいる風な女子の集団の中に、ついさっき見たあの異様な姿が目に入った。
恵だ。
周りの女子達は脱色した髪に短いスカート、分厚いメイクの所為でみんな同じ顔に見える。だから尚更恵の異様さが際立つようだった。
恵は枯れ木のような体に地味な薄い色のワンピースを着ていてこんな場所には全く似つかわしくない。
荒島はあまり関わりたくはなかったのだが、とりあえず恵は実験成功させた逸材としてクスリを渡す事にした。
「め、恵…だっけ?」
近づいて話しかけるとまわりの女子集団が興味深げに荒島の顔を見るなり
「えー?何?恵のカレシィ?」
「うっそおーカレシとかマジウケるんだけど!」
と手を叩きながら笑い、騒ぎ始めた。
「や、この人アレだよね〜?クスリの人でしょー?ほら、におちゃんが買ったって言ってたやつじゃん?」
「えーマジー?私も欲しー」
女子たちは甲高い声を発して騒いでいる。
におちゃんとやらは知らないが多分その子にもクスリを売った事があったのだろう。
「てーか恵っておとなしそうな顔してクスリにまで手ェ出すとかマジサイコー」
「ほらあ恵ご指名だって〜」
と、友達(なのだろうか?)の影に隠れていた恵を半ば強引に引っ張って差し出した。
「あ、あの、私やっぱり種が欲しくて…友達にここの場所聞いてみたらいつも遊んでる場所だっていうから、一緒に連れて来てもらったんです」
恵は荒島と目を合わせないまま申し訳無さそうに言った。
「えっと、こういうとこだとは思ってなくて、あの、誰かにここに来た事は…」
「ああ。別にあんたのことなんてどーでもいいし、それよりもこれ欲しかったんだろ?」
そう言ってビニール袋からクスリを一錠、恵に手渡した。
「…あ、ありがとう…」
恵はその一粒を大事そうに握りしめた。

残りは恵の友達とおぼしき女子グループに渡した。
恵と親しいのならきちんと学校には通っているだろう。
それなら毎日頻繁に酒を飲んだりはしないように思う。
この中でまた体が浮くような実験台は現れるのだろうか。
若者達の気怠い熱気の中で消え入りそうなほどにか細い恵の後ろ姿を冷たく一瞥して荒島はSeeComeを出た。

14

「荒島、だな?」
「?」
扉を開けると暗がりに街灯が幾つか弱々しく灯っているが通りはほぼ闇だ。
静寂が待ち構えているはずのそこから荒島を呼んだ声は知っている声ではなかった。
声のした方を向くとくたびれたコートを纏った隻眼の男が目を光らせながら闇から現れた。
「おめーがヤク売ってるってぇ噂だが、それは本当か?」
ゆっくりと近づいて来た男は手に警察手帳を持っていた。
夕凪曰くあのクスリは中毒性も依存性も無い、ただ浮遊感を得られるだけのいわば合法のドラッグである。
ここで逃げると帰って怪しまれてしまうように思った。
犯罪を犯しているわけじゃない。堂々としていれば良いんだ。
「あれは、危険なモノじゃない。」
荒島が静かに答えると隻眼の刑事はフハハハと笑った。
「何が危険なモノじゃねえだ!!あれ飲ませて何人も殺してんだろお前はぁ!!!」

― ?

― 殺した?

― なんの事だ?

「首吊坂!取っ捕まえろ!」
隻眼の刑事が叫ぶとSeeComeの入り口から出て来た男に荒島は捕らえられてしまった。
他にも刑事が張っていたのか…
ケンカには慣れている荒島だったが腕を絶妙な位置で締め上げられ立つ事が出来なくて刑事の腕を無理矢理解く事すらままならない。
「連続人体爆発事件の重要参考人として同行してもらう。」
荒島はそのまま警察署へ連れて行かれる事になった。



― 連続人体爆発事件…?

― なんだ…それは…

― どこかで聞いたような気がする…

― ああ、そうだ、清が爆発したとか夕凪が言っていたな…

― あれは…もしかして…


― もしかして…


警察署の取調室に軟禁されてもう何時間過ぎただろうか、荒島の頭は混乱していた。
何度も何度も薬の事を聞かれ、どこで手に入れたかを聞かれ、人を殺したのかと聞かれた。
刑事の話によると、どうやら自分がクスリを売った人間の中から爆発の被害者が出ているらしい。
きっと爆発したのはクスリの効果が強く出過ぎた所為なのだろう。そうなると死んだのはクスリと一緒にアルコールを飲まなかった連中だ。
そして夕凪が恵を見て成功だと言っていたのは、きっとクスリを飲んだ恵が爆発せずに生きていたからだ。
荒島の頭の中でぐちゃぐちゃに混乱していた糸を少しずつ解きほぐしていく。
自分はただ薬を売って小遣い程度の金を得ていただけであって人を殺したなど微塵も頭にはなかった。
そして今日、夕凪の話を聞いてからは薬を飲ませる事は空を飛ぶ薬を開発するための実験だとしか思っていなかった。
もしも薬を飲むと爆発すると知っていたなら、夕凪を止めていたと思う。自分の夢のためにそこまでして夕凪の手を汚させたくない。
取調室の机に隻眼の刑事が名前の書かれたリストを乱暴に広げ
「これ、おまえが薬を売った人間だな?」と尋ねる。
そう言われても売った人間の名前なんか知らない。
ただ、リストの中には薬を売った事のある同級生や、つるんだことのある連中の名前もあったからそうなのだろう。
「…多分。」と呟く。
「クスリはどこで仕入れた?」
「…知らない男だ…オレは頼まれただけだ…。」
荒島は夕凪の事は一切口にしなかった。
言ってしまえば夕凪は全部知っていて自分にクスリを売らせていたわけだが、そうすれば捕まるのはきっと夕凪だ。
爆発したのは15人だと言っていたっけ。15人殺せば流石に死刑だろう。
荒島は自分が殺人の片棒を担がされていたことなど微塵も恨んではいない。
夕凪は道楽だと言っていたが全部自分のあの馬鹿げた幼稚な夢を叶える為にやってくれたことなのだ。
夕凪を死なせたくはなかった。
アイツはクズみたいになんの役にも立たないオレよりもずっとずっと有能なのだ。
でも、頭の使い道を自分の所為で誤らせてしまった。
荒島が拳を固く握りしめる。

「乙骨さん、クスリの解析出ましたよ」
突然ドアが開いたかと思うと中学生のような童顔の刑事が顔を覗かせた。
あの時、他の刑事がSeeComeに張っていたようなので薬を売った女子共から押収したのだろう。
童顔の刑事は手に持った資料を見ながら「検査の結果、成分は特殊に配合された気体で成分的には人体には無害です。飲むと体の中で多少気体が膨らむようですが、すぐに血中に溶け込んでしまうらしくて体が破裂する程急激な膨張はしないし、飲んでも危険は無いらしいですが…」と、説明して乙骨と呼ばれた隻眼の刑事の隣に座った。
「あと、このクスリが手に入るのはあのSeeComeって店だけで他の地域では一切出回っていないそうですよ。なので裏に組織が絡んでいる事も考えにくいですね。作ったのは個人か、少人数の組織か…」
「でも、こんなの作るとなったら環境大学とか、気体屋とかに協力を仰がないと無理ですよね。」
「あ、そういえば味蕾町の境辺りにありませんでしたっけ?気体屋。そこなら凩先生の言ってた患者さんの証言も合う。」
童顔の刑事は思いついたようにぽんぽん言葉を発するがそれを聞いて荒島の背中に嫌な汗が流れる。
それを知ってか知らずか、乙骨が机に肘をついて荒島の顔を覗き込んだ。
「オイ、おめー誰からクスリ仕入れたのか、今のうちに言っといた方がいいぜ。お前の交友関係なんて只が知れてる。刑事なめんな。ボウズ。」
もしかするともう警察に夕凪のことは知れているのかもしれないし、カマをかけられているのかもしれない… 「…知らない。」
荒島は不安な気持ちを悟られぬよう、いつもの無愛想な顔で乙骨の顔を睨み返した。

15

結局は証拠不十分で主犯である可能性も低いということで荒島は解放された。
外は丸一日が過ぎてしまったのかと錯覚させるほど真っ赤に染まっていたが、それが夕焼けではなく朝焼けである事を携帯電話の時計を確認して気が付いた。
一応釈放はされたが刑事に目を付けられてしまった。夕凪の身元がバレるのも時間の問題だろう。
どうにかして、アイツを逃がせはしないだろうか。
荒島はふらふらと歩き始めた。

夕凪に電話をかけたが一向に出る気配がない。
そうだ、この時間はもう夕凪は電車に乗って学校へ向かっている時間じゃないか。
あの変に糞真面目な秀才の事だからきっと携帯をマナーモードにしているのだろう。
しかたなしにメールを送る事にした。
夕凪を捕まえる為に実家の気体屋と学校はすぐに警察に張られるだろう。
学校へ着いてしまう前にどうにか夕凪に逃げてもらわないと…

『警察に捕まった。逃げろ。自由になるのはお前の方だ。』

荒島はひとつ、固く決意していた。
夕凪にはもう会えないだろう。
空を飛ぶ事も叶わないだろう。
でもこれでいいのだ。
知らなかったとはいえ、オレはたくさんの人を殺したんだ。
それは紛れも無い事実。
だからこそ、オレにしか出来ない事がある。

荒島が向かったのは大脳公園からすこし進んだ先にある廃駅だった。
高校の近くに新しい駅が作られたのでこちらは今は使われなくなっているのだ。
立ち入り禁止の鎖を跨いでホームに出る。
アスファルトで舗装されているがところどころそれを突き破って伸びた草木で荒れ放題だ。
ホームの下に流れる線路を見つめる。
しばらくすればここを夕凪の乗った電車が通過するだろう。
電車が通るのは1時間に1、2本と数が多くないので間違えることはない。

荒島は夕凪に何度も救われていたのだ。だから感謝している。

― 寂しかった幼少時代をアイツのおかげで楽しい思い出にできた。
― 馬鹿でなにも取り柄が無いオレの為に…こんな…

思えば荒島をまっとうな道から踏み外す事無く留まらせていたのは紛れも無い夕凪の存在があったからだと思う。
夕凪がいなければ孤独の中で今以上に自暴自棄になっていたかもしれない。
もっと危険な人物達と関わりを持っていたかもしれない。
他人の生死などどうでも良いと思ってはいたが、本当はきっと恐ろしくて仕方なかったのだ。
誰かが死ぬ事、自分が、死ぬ事。
でも…

遠くから電車の近づいてくる音が聞こえる。

― 夕凪がいなくなれば俺はまた独りだ。

― 自分が生きていたってきっと誰の夢も叶えてやれない。誰の事も幸せになんてしてやれない。

― だから、


朝陽に照らされた肉色の車体が見えて来た。

― 夕凪、

― オレがお前にしてやれる事は、



人身事故が起これば否が応でも電車は途中で停まる。
オレが目の前で自殺すれば頭の良い夕凪ならば察して逃げてくれるだろう。
オレは大勢の人間を爆殺した罪の意識で自殺するのだ。
警察に目を付けられて、もう逃げ切れないと諦めて自殺するのだ。
どちらでもいい。この筋書きは警察を納得させるのに十分だ。
警察が夕凪に辿り着く前に、オレは一人で罪を背負って死ぬ。


荒島は足を掴む地面を振り切って線路に飛び立った。






「…」

― 飛んでる?

勢い良く通り抜けていった電車に、荒島の体は宙高く跳ね飛ばされその間の出来事は
まるでスローモーションのようにゆっくり、ゆっくりと展開してゆく。

― オレ、飛んでる。飛べてる。こんなに高く。

ちぎれた腕の先から真っ赤な翼が生えて、それからもっと高見へ飛んで行けそうな気がする。
空にひとつの飛行機が飛んで行くのが見えた。

― ああ、そうだ。

― そうだった。

― 思い出した。あそこには家族がいるんだ。

全部、思い出した…。

荒島の体を支えるモノは何も無い。

その浮遊感は脳の奥底に仕舞い込んでいた遠い昔の記憶を揺り起こした。

弟が生まれて肉桂町の新居に移る為に父さんの操縦する飛行機に乗ったんだ。

でも、それが海に落ちて…みんな…オレを残して…

荒島の目に涙が溢れた。
こんなにも空を飛びたかったのは怖かったからだけじゃない。
会いたかったからなんだ。家族に。

― オレは飛んで行こう。このまま家族の元まで飛んで行けるんだ…。幸せだったあの頃に…。


荒島は腕をはためかせたが赤い翼は一向に生えない。
そのまま地獄の底へ引き寄せられるように宙でぐるりと回転した荒島の目に最期に映ったのは


暗く、固い、アスファルトの地面だった。


16

11年前の事は良く覚えている。※無断転載厳禁・山井輪廻※
気体屋の、自室の窓の外、海の向こうに長い長い煙の柱が昇っていた。
テレビで毎日のように騒がれていたっけ。
旅客機が墜落して乗客の9割が亡くなったと。
その後転入して来た荒島がその時奇跡的に助かった乗客の一人だと知ったのは担任に聞かされてからだ。
クラス委員長だった自分に荒島の面倒を見て欲しい、と担任の教師は表向きはそう言っていたが、きっと母を亡くした自分と、家族を亡くした荒島では似た境遇の者同士、支えあって仲良くしていけるのではないかという考えがあったのだろう。
荒島にあまり事故の事を思い出させないように気を使っていたのだが、それはあまり意味の無い事だったと徐々に理解してきた。
荒島は家族を失ったショックで記憶が抜け落ちていた。そして抜け落ちた記憶の代わりに家族はまだ生きているという妄想がはめ込まれていた。
実際は親戚の家で育てられていたようだが、不慮の事故で仕方なく引き取った荒島を、親戚の家庭はあまり大切にしていなかったようだ。
いつも寂しそうに、誰とも仲良くしようとしなかった荒島の手を取って、2人で遊んだ。
夕凪は、可哀想な荒島に可哀想な自分を重ねていたのだろうか、いや、そうではない。
自分よりも不幸な目に遭った荒島に同情して、見下して、嫌な優越感を持って接していたのだ。
夕凪にとってそれは荒島に感謝し、そして贖罪すべきことであった。
自分は家を継ぐことで人生を縛られているが、アイツは自由だ。
幼少時代、自分のつらい境遇を支えてもらったお返しに、自分の代わりに自由に生きて欲しいと、
だから、荒島の夢を叶えてやりたかった。
飛行機に乗っても怯えなくて済むよう、トラウマを払拭してやりたかった。

と、いうのも方便なのかもしれない。
夕凪は自由の利かない人生の中で、それでも自分にしか出来ない事をしたかったのだ。
あの薬は気体の配合が多過ぎると体が四方に飛んでいってしまう。
危険すぎて、とてもじゃないがいきなり自分や荒島が飲んで試す事などできない。
だから、社会のゴミを使った薬の実験をしたのだ。
なにかしら効果があれば荒島を伝ってその噂は耳に入る。
しかし何度実験しても爆発して死んでしまう被験体は後を絶たない。
このままでは薬が完成するよりも先に警察に捕まってしまうだろう。
何も知らずに薬を売っていた荒島に、実はあの薬の所為で人間が爆発していたということ、荒島に犯罪の手伝いをさせてしまったことを告白しようと思っていたのだが、その直前になって薬を飲んで体が浮いたという人間が現れた。
恵の体の比重と気体の量が丁度良かったのだろう。
これを元にもっと実験結果を得られれば荒島の夢を本当に叶えられるかもしれない。
焦りと諦めの中に希望の光が灯った。
もしも捕まる前に薬を完成させれば、どこまででも逃げられる。
失敗した試薬品はすぐに処分してるから残るのは安全な薬だけ。
あの薬は普通の薬とは訳が違うんだ。警察はあの一見無害な薬の成分くらいしか解析出来ないだろう。
もし捕まっても罰を逃れられるかもしれない。
薬の完成は本当にもう一歩なのだ。

朝の電車に揺られながら夕凪は物理学の本を読んでいるが内容など全く頭には入っていない。
薬が完成したら、荒島はどんな顔をするだろう。一緒に空中散歩するのもいいな、と想像に耽っていたので鞄の中でむなしく震えている携帯電話は電車の揺れに混ざって夕凪が気付く事は無かった。


突然、ドンっと車体に何かがぶつかった。

― またか。
心臓町は人身事故が異様に多い。
夕凪が肉桂町の学校に通う為に扁桃線の電車で通学を始めてもう何度遭遇しているだろうか。
『乗客の皆様、先ほど人身事故が発生しましたので次の血管駅で1時間程停車いたします。ご迷惑をおかけして誠に…』
乗客も車内アナウンスも慣れきったことなのか酷く淡々としている。
馬鹿は他人に迷惑のかからない自殺方法すら思いつかないのか?とため息をついて再び本の中に視線を落とした。 電車は何事も無かったかのように走っている。
今日も荒島は公園で肉まんを食っているのだろうか。
たまにはあんまんでも買っていってやろうか。
夕凪は本で顔を隠し人知れずふふふと笑った。

次の駅で、刑事達が待ち構えている事も知らずに。

17

午後の診察も終え、頼まれていた備品の整理が一段落付き、凩がうん、と背伸びをしていると そこに「受け付けから電話です。」と連絡が入った。
相手は恵の母親であった。
診察日の変更だろうか?と軽く構えて話を聞くと、母親は酷く落胆して恵が死んだ事を伝えた。
なんでも死因は恵がいつものように野草を口にしたのだが、運悪くトリカブトの花を食べてしまったらしい。
元から弱っていた体ではその毒に耐える事が出来ずに死んでしまったのだろう。
「なんてことだ…」
患者を死なせてしまった。もっと自分に出来る事を見つけられたら、恵の病気を治して、また昔のように普通の女の子に戻してあげられたら…
やり直しのきかない事態に陥ってようやくこうすれば良かった、ああすれば良かったと色んな考を巡らせてしまう。
その日はずっと、やりきれない虚無感が凩の全身にまとわりついた。

翌々日、恵の葬儀に出席する事にした。
色彩の欠落した葬儀会場でやけに目立つ派手な髪型をした恵の友達らしき女の子たちがしくしくと身を震わせている。
恵がこんな子たちとつるんでいたことは少し意外だった。
飾られた生前の写真は、まだ花を食べ始める前の健康的な恵だ。青春の、人生でもっとも華々しい時期の姿だろう。
凩が柩を覗き込むと、白菊の花園に一輪だけ枯れた花が横たわっていた。
「恵ちゃん…」
恵は、死んだ。この間まで生きていたのに。それなのに診察室へ来る事はもう二度と無いなんて…。

恵の入った柩が炎に包まれ、空を突き刺す煙突からもくもくと出てくる白い煙がやがて空に散ってゆく。
燃やされて灰になった恵はタンポポの綿毛のようにどこかへ飛んでゆき、きっとまた新たな生命として生まれるのだろう。
凩は灰被りの空を見上げてそう祈った。
※無断転載厳禁・山井輪廻※


ワタゲ:飛行少年篇
― 終 ―